2.

 マンションを出て、ふと、立ち止まった。
 もうここに戻ることはないんだ、と。住んでいた二階の部屋のテラスを仰ぎ見た。
 あっ。
 声が出そうになって、キャリーバッグの柄を握り締めた。
 だって、オトコがいたから――。
 テラスに出て、タバコを吹かして、あたしを見てたから。目が合っても、反らされることはなくて。
 オトコの目は、あたしを責めるものでもなければ、冷ややかでもなく。
 だからといって、引き止めようとしている風でもなかった。
 ただ、静かに受け止める。そんな目をしている。
 いつもと同じ優しい顔だった。
 鼻の奥にツンと熱いものが込み上げて、すんと息を詰める。泣くところじゃない、と自分に言い聞かせる。
 オトコはタバコを吸って、遠い空に向け、煙を吐き出した。
 疲れて見えるオトコの顔が、朝日に照らされて、昨日よりもどこか安らかに見えた。
 そうだよね、ようやく解放されたのだから。
 よかったね、これであなたは自由になれた。
 あたしは、深々とお辞儀をした。
 マンションに背を向け、歩き出した時、
「優ちゃん、これ、餞別」
 持って行け、と。オトコはテラスから身を乗り出して、四角いものを落とした。
 地面に音を立てて落ちたものは、封筒で。口からはお金が見えていた。
 コンクリートの上にはずいぶん不釣り合いな札束だ。
 あたしは拾ってから、これは貰えない、と首を振った。
 オトコは短い息を吐き出すと、
「いいんだ。優ちゃんにはおいしいごはんを作ってもらった。その報酬だと思えばいい」
 どこまでもいい人。
 母はこんなにいい人のところを出て行ったんだ。
 ほんとうに馬鹿だね、あの人は――。
 今までのオトコの中で、一番誠実な男なのに。
 だからこそ、こんな大金は貰えない、と思った。
 こんな大金。
「これは、いただけません」
 今までいっしょに暮らした中で一番に声が出ていたと思う。いつもはっきりとしない小さな声だったし、オトコと話すことはなかったから。
「いらないなら、そこに捨てといて」
 オトコは、それだけ言うと部屋に入ろうとした。
 待って!
 今、言わないと。早く言わないと、もう言えなくなる。
 言わなくっちゃ――――。
 息を一気に吸い込んだ。
「あ、ありがとうございます。いつか、返しに来ます。ほんと……に、ありが……」
 これ以上、軟弱にもあたしの声は続かなかった。
 泣かない! 泣いちゃ駄目、だから……。
 頭で思うだけじゃどうにもならなくて。情けなくって。だけど、涙が込み上げて、堪えることができなかった。
 あたしのせい。分かってる。
 だから、ほんとうは泣いちゃ、駄目なのに。
 ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。ごめんなさいっ!
 あたしの頭ん中はぐちゃぐちゃで、顔も涙でぐしゃぐしゃ、になっていた。
 涙でにじんだあたしの目には、景色もオトコの顔も、ぼやけて分からなくなって。はっきりわからない。
 でも、オトコは振り返って、微かに笑ったみたいだった。
 そしてすぐ背を向け、部屋に入っていった。
 あたしの両手には、ずっしりとした重みだけが残った。
 パンパンに膨らんだ封筒の中を見ると、お札のほかに小さな紙切れが入っていて。どこかの住所と携番。あと、<困ったら行きなさい>と走り書きがしてあった。
 それには、スチールの鍵がひとつ挟まっていた。
 最後まで心配してくれて、なんて言ったらいいのか……。
 あたしは、鍵と封筒を大切に、胸に抱きしめた。


 母とあたしには家がない。
 母には定職もなく、あたしを育てる能力もないけど、男を落とす能力だけは変に長けていた。金を持っているオトコを見つけては、そのオトコの部屋に上がりこみ暮らす。
 まるで寄生虫のように。
 ほかの女に目を向けさせない極上の匂いがして、男は母に釘付けになる。
 だからと言って、淫らで安っぽい印象はなく、そこはかとなく儚げで、立ち振る舞いは上品そのものなのだ。そこにいるだけで、ぱぁっと華やいだ空気を持っていた。
 母には不思議な魅力があるのだと思う。ただ美しいだけではない、なにかが。
 普通の男の人はすぐに魅せられ、その虜になる。
 何人の男たちが母と重なっただろう。たぶん、数え切れないくらいに。
 波乱に満ちた人生、とか。自由奔放に生きる人。
 それが母を説明するに相応しい言葉だ。
 だけど。
 そんな母でも、あたしは感謝だけはしている。ろくに仕事もせず、ふらふらと生きているような母だけど、行きずりの男との間にできたあたしを産んで、育ててくれた。
 とても愛してくれた。
 母はあたしに豊かな生活をさせるために、選り好みせず、金を持っている男ってだけで、平気で体を合わせたのだから。
 時間が経てば、そんな男との間に亀裂が入るのもしょうがないこと。愛してもいない男なんだから……。
 だから、母は堕落していったのだと思う。
 母は家事らしいことを一切せず、ただ男と寝て、着飾り、アルコールに溺れるだけだった。
 それらの男との関係も数ヶ月そこいらで終わってしまう。
 ただ、今回はめずらしく三年も続いていた。もしかして、オトコが最後の男になるのかもしれない。そう思っていたのだ。
 いや、どこか、そうなればいいと願っていた。
 父のような広い胸に抱いてもらいたいと、何度思ったことか。
 そんなあたしを母は見ていたのだ。
 女の勘。
 勘のとても鋭い母だから、気づいたのかもしれない。


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