3.

 オトコは子会社をいくつも持つ大企業の社長で、妻子もある人。
 不幸にも妻とは愛のない政略結婚をしていた。互いが愛人を囲うことを許し合っているため、オトコは本宅に帰ることもなく、毎日マンションに帰ってきた。
 あたしは、オトコがマンションで夕食を食べるという日は、夕食を用意し、家事もきっちりとこなしてきた。
 母は外を出歩くことも多かったので、オトコとあたしがふたりきりになることも多かった。
 夕食をいっしょに食べたり、ときどきオトコが買って帰るケーキを食べたり。
 居心地がいいと感じていたし、関係は良好だった。
 だからと言って、オトコとあたしがどうにかなったということもなく、話すことも滅多になく、ただ同じ部屋にいるだけだったのだけど。

 ある日を境に母はおかしくなった。
 母がオトコとあたしを勘ぐり始めたのだ。
 「何もない」と言っても、ヒステリックに泣き喚き、アルコールに逃げるようになった。
 しだいに身体も衰え、入退院を繰り返した。
 先日、ようやく退院したばかりなのに……。
 また昨夜、母が荒れた。
 今回だけは駄目だ、と思った。
 今まで声に出したことのなかったオトコが、母を叱ったのだ。
 そのあと、母の怒鳴り声が散々続いた。何時間も。気が遠くなるくらいに。
 お酒がなくなった時、母は言い放った。
<――――こんな部屋は必要ない。あなたも要らない!>
 母は言ってはならない言葉を口にした。
 もう、駄目だ。あたしは自分の部屋で布団を被った。
 聞きたくない。お願い! やめてっ。
 でも、聞こえた。
 オトコの方から、出て行くように言ったのが。……鮮明に。
 あたしには解った。言葉の裏にある、オトコの心の叫びを――。
 <愛している、律。愛しているんだ。わかってくれ!>と。
 どうして、母にはその声が聞こえないんだろう。
 あたしはベッドの中で、ひとり震えた。
 母の泣き叫ぶ声と、オトコを罵る叫び声が部屋中に響いた。
 布団の中にいても聞こえる、母の心からの叫びが――。
 オトコはどこも悪くないのに。
 母はただ寂しいだけなのに。
 母はオトコばかりを責め、オトコはそれを静かに受け止めるだけだ。
 でも、どうして?
 責められるのは、あたしのはず。
 怒りの矛先を向けられるのは、あたしなのに。
 母は、一度だってあたしに当たったり責めたりしなかった。

 あたしは、オトコが好き。
 で。
 オトコが好きなのは、母だけだ。
 なのに。
 どうして母は分かってあげないんだろう。
 あんなにも、愛されているのに。妬いてしまうほどに。
 切なくって、苦しくって、おかしくなりそうなほどに。
 もう、あたしの居場所は、どこにもない。
 朝日を受けて、公園通りを歩いた。
 アパートを探さなくては。
 どこかにあたしの居場所を見つけなくては。

 あたしは大学四年で、すでに就職も決まっている。
 オトコ絡みのコネ入社って言ったらいいだろうか。いくつもの会社を系列に持つ企業のひとつに内定をもらっている。
 それも、もう駄目だろう。
 大して、頭も良くないあたしが、ふつうに希望して入れる会社ではない。
 オトコと手の切れた今は、諦めるしかない。
 でも、大学だけはなんとしても卒業したい。
 かばんの中の大金の使い道は、大学の後期の授業料に充て、あとは部屋代と生活費に消えるだろう。
 部屋を借りるのには、保証人が要る。……母はたぶん無理として――。
 考えながら歩くこと二十分。不動産屋の前に着いた。
 まだ朝も早い時間。営業時間までは数時間もある。
 表に張り出されている部屋の賃貸情報を見る。
 敷金、礼金が重い。結構なお金がかかることが予想される。
 どこかで働かないと食べて行けないかもしれない。
 眩暈がする。
 いままで、あたしは一度も働いた経験がない。ひとりで暮らしていくのは無理だろうか。
 昨日から食べていない胃袋は、さっきから鳴りっ放しだ。
 先の見えない不安にコンビニでパンをひとつだけ買った。
 こんな買い方をするのは初めてだ。買うなら、飲み物やサラダ、プリンもいっしょだったから。
 パンをひとつだけ袋に入れてもらうのも気が引けて、断ってそのままかばんに入れた。それがまた、ものすごく恥ずかしくって、自分の頬が赤くなるのが分かった。
 レジの人が、あたしのことをじろじろと見ている。
 おかしいのだろう。まるで家出をしてきた格好だから。
 こんな朝早く、キャーリーバッグを引きずった女なんて、珍しいに違いない。
 居心地も悪くて、苦く笑うと、コンビニを逃げるように出た。

「待てよ。待てって!」
 後ろから呼ぶ声がして、見ると、ほらっと。
 手の中に紅茶の缶を押付けられた。
「あのさ、いつも買い物に来てくれるよね。……俺はよく知ってて」
 からからっと軽く笑う男。コンビニのユニホームを着て頭の後ろを掻いている。
「って、言っても俺のこと、知らねえよな?」
 あたしが黙って見ていたものだから、そう続けた。
「はぁ」
 無視するのは失礼かもしれない、と思いながら答えた。
 この男は、なんていうか、今風?
 やや茶色で長めの髪をワックスで散らした髪型で。顔は悪くない。で、うーんと見上げるほど背が高い人だ。
 明るそうで、なんにも困ってなさそうな顔。
 そんな人に、あたしのことなんか分からない。今は放っておいてほしい気分なのだ。
 手にある紅茶を見せて。
「これ」
「ああ、いいよ。レジ、通してあるから。……奢りね」
 にっこり。満面の笑み。
 あたしの本能が危険、と教える。タダほど怖いものはないって。
 でも、返してしまう勇気もない。
「あ、ありがと」
「ん」
 にこっ。
 離れたいのに。なんか、離れにくいよね、その笑顔。
「そ、それじゃあ」
 方向を変え、おずおずと歩き出す。なんとなく視線を感じて、振り返った。
 あ。
 手を振ってる。
 ぶんぶん、と振り回していて、恥ずかしくなった。
 あたしは、ちょっとだけ角度をつけて、お辞儀をした。
 本日、二度目のお辞儀だな、と思った。


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