4.

 いつも通り過ぎるだけの公園でパンを食べる。ベンチに座り、いちごジャムのコッペパンを頬張る。
 片手には、もらった紅茶を持って、流し込むように口に入れた。
 味わって食べてられない気分だからか、なかなか喉に通っていかない。
 甘ったるいはずのいちごジャムも、ミルク入りの紅茶も、不思議と味がしない。
 食べ物の味を感じないなんて、そんなことがあっただろうか?
 なんで? もう、やだ。こんなの。
 言いようのない苦しさで、涙が込み上げる。
 それでも時間をかけ、苦労しながら飲み込んで完食した。
 セミの鳴き声がやたら煩くて。頭が痛い。
 これからのことを考えると、怖くて身体の底から震えだしそうになる。
 いてもたってもいられなくて、携帯を取り出した。
 昨夜出て行った母に連絡する。
 何回かコール音がするけど、出てくれない。
 よく飲み歩く母は携帯を置き去りにする。他人に見られても平気なように、名前を登録していない。今、その携帯のディスプレイには、あいうえお順に登録したあたし、優を意味する『あ』の字が出ているはずだ。
 お母さん、今、どこにいるの?
 一度切ってから、再度かけ、しばらくコールして知らせる。
 空しく響く音にも耳を傾ける。
 今、頼りになるものはこれくらいだから。
 あたしからだから出ないのか、どこかで眠っているから出ないのか、母が出る気配は感じられない。
 もう一度だけ、これが最後、と指先に力を込める。
 あたしの念が届いたからか、今度はコール音が鳴り出すと同時に通話になった。
 あまりに呆気なくて、声を失った。
『……律? 律なのか? ……帰っておいで……』
 オトコの母を呼ぶ、甘い声が聞こえた。
 その声は母をとても心配している声で。顔が見えないだけに、直接的に感じられた。
 オトコはそれでも、母を愛しているんだ。
 こんな声を聞いてしまったら、もうなにも言うことができない。
『…………優ちゃん、か?』
「……っ」
 この時、ようやく気づいた。
 オトコが出るということは、母が携帯をマンションに置いて出た、ということだ。
『優ちゃん、今、どこにいるの?』
 オトコの優しい呼びかけに力が抜けそうになる。縋りたくなる。
 駄目――。 あたし、駄目になる。
 お母さんみたいになっちゃう――。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
 何度も謝った後で、慌てて通話を切った。
 長い間、ぼんやりとディスプレイを見つめた。
 もう、母に繋がるものがなくなってしまったな、と思った。
 ひとりぼっち。
 なのに、実感すら湧かない。
 母を捜そうと思う気持ちも、湧いてこない。
 あたしって、こんなに薄情だったかな。
 もう、どうでもいい。どうなってもいい。そんな気持ちだ。
 公園のベンチに座ったまま、オトコに貰った封筒を取り出した。
 小さな紙切れに書いてある住所を読む。携番も。
 住所は、大学にすごく近いところで、携番は知らない。
 <困ったら行きなさい>のオトコの文字が、慌てて書いたように躍っている。
 見ていたら、また泣けてきた。弱いあたしなんかがどこまで、がんばれるのか?
 すごく不安で、あたしはどこまでも無力なんだ。


 くよくよ考えても始まらない。と、大学に行くことにした。
 まずは、大学の掲示板を見る。ずらりと並ぶアルバイトの斡旋。ここには急募のものが貼ってある。夏休み前だからいつもの倍の量がある。
 いくつかメモを取る。
 家庭教師も良さそうだ。<食事付き>とか、いいかもしれない。あとは、大手塾のテストの添削だったり。手近なところで、食堂の求人、……これは自給が安いけど、やっぱり<食事付き>が魅力だ。
 で、何と言ってもここにある求人は、断られることが滅多にない。
 身元がきちんとしている、言うなれば、お金持ちの子女が通う私大として、有名だから。
 それもオトコの援助があってこそだ。この大学に通うことができたのも、すべてオトコの力だ。
 いつか、このご恩を返さなくては、と思っている。
 そのためには、なんとしても仕事を見つけなくてはならない。


 夏休みに入る前の最後の授業。
 上の空で考え事している内に、あっけなく終わった。
「優、そのキャリーバッグ、なに? どっか旅行すんの?」
 ぜんぜん聞いてないよ、という顔であたしを覗き込む絵美。
 大学に入学して以来の親友だ。
「うん、ちょっとね、母の……」
 家出で……なんて言葉は続かなかった。
「ははーん。さては、実家、か」
 実家?
「で、どこなの、実家って?」
実家は、……たしか、
「群馬」
 行ったこともないけど、母の実家は、群馬だって言ってた。
「群馬か、……だったら、水沢うどんだね。お土産にはうどんを買ってきて! よろしく〜」
 調子よく、ぽんっ、とあたしの肩を叩いて、絵美は手を振って走っていった。
 この後、彼氏とデートだって、言ってたな。絵美ったら、らぶらぶだもんね。
 いいな。
 あたしには、今夜、寝るところもない。
 溜め息が自然に漏れる。
 ああ、また。
 幸せが逃げてっちゃうよ――。


 住まいを探しに、不動産屋を何軒もハシゴしている。
 あたしのキャリーバッグを見て、ただの家出人だと思われ、断られたところが数軒。
 それでは、と。キャリーバッグを駅のコインロッカーに預けて、さらに探した。
 だけど、保証人がいないって分かった時点で、体よく断られた。
 やっぱり駄目か、と肩を落とす。
 街を当てもなく歩いた。
 その間、知らない男の人から何度も声をかけられた。
 アパートが駄目なら、住み込みできる仕事はないか、と探そうとしているのに。
 変に、邪魔が入る。
 もうっ、放っておいてくれないかな。
 あたしは、そんな男たちの声を振り切って、どんどん歩いた。
 気がつくと、とっぷりと日が暮れて、月が出ていた。
 まんまるの月に、文句を言いたくなった。
 その幸せそうな月に。
 やけに自分以外が幸せそうに見えるのだ。
 今朝、パンを食べた公園が近いな、とそこに向かう。
 公園のベンチで夜を過ごそうと、通りを歩いていると、公園の中から怪しい声が聞こえてきた。
 まだ深夜にもなっていない時間で、まだ人通りのある時間なのに、公園の茂みから喘ぎ声が聞こえた。信じられない――。
 どうしよう?
 暗いし、薄気味悪い。
 あたしは公園の入り口にある一際明るい電灯の下に立って、ポケットからあの紙切れを取り出した。
<困ったら行きなさい>
 オトコが言ってくれているようで、文字が滲んでくる。
 困ってます。あたしには力もなくて……。
 ここに電話して、行ったらいいのかな?
 コールする。
 何度しても、繋がらない。
 直接、この住所に行くしかないのか?
 あたしは、歩いて、向かった。
 自由に使えるお金もないので、四十分かけて歩いた。


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