9. 「……ん」 あっ。動いた。 翔は少しだけ身動ぎすると、目を瞬かせた。 目が覚めたんだ。 「おはよう」 起き抜けなのに、爽やかな挨拶をされた。 「あ、……お、おはようございますっ」 もう、恥ずかしくって顔が見れないよ。……あたし。 「もう、大丈夫そうだね。顔色もいいし。憶えてる? 昨日の夜のこと」 え? 「激しかったね」 え? 翔は、あからさまに色っぽい表情で、あたしの額にキスをした。 かぁっと、額から身体全体へ熱が移ってゆく。 恥ずかしいったらない。 さっきから、何度思っただろう。恥ずかしすぎっ! あたしの身体に回した腕を、退かせて、早く自由にしてほしい。 「あのぉ」 もぞもぞと這い動くと、思ったより簡単に腰や足を解放してくれた。 身体の自由を取り戻すと、ちょっとでも翔から離れようと、ケットで隠しながら起き上がり、自分の膝を抱き丸まった。 翔も同じく身体を起こしてから、あたしに詰め寄り、腕と足を使ってすっぽり包み込んでしまった。 近すぎ! もうっ、離れた意味がないし。 「優は、憶えてないの?」 あたしは、こんな状況に正直どうしたらいいかなんて分からなくて、首を傾げる。 ん、本当に? って顔の翔。 どうしてそんな寂しそうな顔して訊くの? 「は、い」 さっぱり、まるきり、皆目、微塵も……。 どんなに言葉を並べてみても、憶えてないものは仕方がない。 「ごめんなさい」 シーツの上に正座して、平身低頭する。 よしよし、と頭を撫ぜられて頭をあげると、翔の笑顔があった。 その笑顔は、心までは読ませないよ、と言っているようで、あたしは竦んだ。 あたしは、とんでもない人のところに入り込んだのかもしれない。 「さぁ、お風呂に入っておいで」 肩を押される。 「……はい」 返事をしたものの、にやにや笑っている翔に気がつき、ケットを取り去られたことに気がつく。 ひとつしかないケットを取り返し、ちょっと乱暴に翔の頭に被せた。 「えっち! 見ないでくださいっ」 隠す物もなくて慌てるが、翔がケットを被っている間に出ちゃえと、そのまま扉に走った。 「優。はしたないぞ」 後ろから追いかける声。 その口調。まだにやにやしている。 でも、でも絶対に、振り向いてなんてやらないんだから。 と。 「優。きれいだ」 溜め息とともに吐かれた声に、はっとした。 あたしはドアノブを掴んだまま、その先のことを一気に忘れ去った。 頭の中は真っ白だ。 後ろから抱き込まれ、首筋に唇を寄せられていた。 心臓が急速に動き出す。 柔らかな口唇が吸い付くように這い動き、かかる吐息がとてもくすぐったくて、熱い。 自分の熱なのか、翔の熱なのか区別がつかない。 「親父なんか、やめとけよ。優」 胸に掻き抱かれ、求められる。 あたしに何度も何度も刻むようなキスを落とした。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。 困惑の中。 <優、いーい? 男の気持ちを量るには、身をゆだねてみるのよ。そうするとわかるから> 母の声が聞こえた気がした。 あたしは、オトコに似ている翔の表情を穴のあくほど見つめる。 薄目を開けている翔に、唇をかすかにゆるめ、瞼をつぶっていった。 強く口唇を吸われ、懐柔されていく。 その間も、母の声が頭の芯にまで甘く響く。 <優、なにも考えないの。だいじょうぶだから> キスが深くなって、力も抜けてしまった身体はまるで自分のものではないみたいだ。 誰にも身を任せたことのないあたしにある羞恥心や恐怖心がどんどん薄れ、奥から込み上げるじわじわと痺れるような感覚を受け入れ始めていた。 <優ちゃん> 母じゃない、……オトコの声? <優ちゃん、優ちゃん> あたしを呼ぶ、オトコの優しい声が聞こえた。 抱きしめられたまま、ベッドに身体が沈みこんだ時。 はっと目が覚めた。 目の前には、オトコとは別の顔があって。 あたしの胸に埋めようとしているセクシュアルな表情の翔が映った。 や、やだぁ! こ、怖い――。 「やぁ。嫌っ。嫌ぁ! やめてぇー!」 声の抗議といっしょに、腕に力を込めて突っ張った。 どうして翔を受け入れようとしているのか、自分でも分からない。 情けない気持ちがいっぱいになって、涙がこぼれた。 「……んだよ、親父の方がいいって? あの人のどこがいいの? なぁ、教えろよ!」 言葉の奥に、オトコへの憎しみが隠れているような気がして、あたしは混乱した。 翔にあたしとおなじ匂いを嗅いだ気がしたから。 親への不信。 親を『あの人』って言う、共通点を。 「ち、ちがう、ちがうの! あたし、翔のこと、まだ、なんにも知らない。知らない人と抱き合うのは嫌! そういうことは、好きになった人とだけなの。あたし、だから、好きな人が見つかるまでは、大切にしたいの!」 「な、に?」 あたしの言うことなんかまるで分からない、という翔の表情。 「それに、誤解してる。あなたのお父さん、和人さんの愛人は、あたしの母です。最初に言わなかったあたしがいけなくて……」 黙っていた罪悪感と、押し倒されている恐怖が、あたしを一気に襲う。 「愛人、じゃない?」 「はい。愛人は母の方、だから」 「悪い」 ごめん、悪かった、と言って、翔は謝った。 そして、あたしの上から離れると、床に落ちていたケットであたしの身体を申し訳なさそうに包み込んだ。 今の翔の顔からは、さっきの衝動が嘘のように消えていて、とても穏やかな顔をしている。 最初に会った時の、冷たい感じがしなくなっていた。 「優、聞いて。夜、『激しかった』っていうのは違うから。心配だったから様子を見るために添い寝したんだけど、優の寝相が悪くて、何度も殴られたり蹴られたりして。痛いのは嫌だろ? だから動けないように羽交い絞めにして寝たんだ。そういうことだから、ぼくと優の間にセックスはない。それに、自分の体を大切にしてるって、ぼくはいいと思うよ」 思わぬ翔の言葉に驚いた。そういうことを言う人には見えなかったから。 どちらかというと、バージンなんか面倒くさい、と断言しそうな感じなんだもの。 「う、ん。でも、二十二にもなって、笑っちゃうでしょ?」 母に寄ってくる多くの男たちを見てきたあたしは、男の人を容易に信用することができなかった。 母だけでは飽き足らず、あたしにまで手を出そうとする男もいたのだから。 この歳になって、バージンなんて、人には言えないし。 恥ずかしすぎて全身がきっと真っ赤だね。 火照ったように熱いもん。 「いや。そんなことはない」 翔の胸に抱き寄せられ、頭を優しく撫ぜられた。 |