1.

 大学四年の夏。
 自由奔放な母の家出で、あたしの人生は大きく変わってしまった。
 目覚めたらベッドに男の人がいて、裸のあたしをきつく抱きしめて寝ていた。
 もう誰でもいいから何かの間違えだ、って笑い飛ばして欲しい。
 そんなこと絶対にありえないから。
 男の人と付き合ったこともないのに、どうして?
 頭が、顔が、ありえないくらいに熱を持って、あたしはパンク寸前に陥った。
 だけど混乱するあたしを、宥めてくれたのもその人で。
 何気に整った綺麗な顔は、母のオトコに似ていて、あたしの気持ちを激しく揺さぶった。
 だって、あたしの初恋は、母のオトコだから。
 目の前にいる人を見る気分は、とても複雑で例えようもない。
 あたしは母のオトコを忘れようと出てきたのに、このままじゃ逃れることはできなくなる。
 でも、似ているからと言ってすべてが似ているわけじゃない。
 性格は、まったく違うようだ。
 優しいところもあるけど、強引だったり、寂しげに孤独を垣間見せたり、いろんな顔を持つ人で……。
 そして今、意地悪な笑みを浮かべているあたり、性質の悪い人なんだ、って。
 そんな人に捕まったあたしの人生は、大きな落とし穴にはまってもがき苦しむか、未知の迷宮に迷い込んで抜け出せない可哀想な境遇なのかもしれない。
 その男の人は、母のオトコの息子で、本橋 翔(もとはし しょう)という。
 たった今、あたし羽鳥 優(はとり ゆう)は、大ピンチの予感?
 これからどうなっちゃうの?
 いまにも美味しく食べられてしまいそうなあたしを、誰か助けて〜!

「優? な、聞いてる? ちょっ、この顔、また聞いてないだろ。ゆう? さっきから携帯鳴ってるけど? お〜い!」
 お〜い?
 見れば、翔の手のひらがあたしの顔の前でひらひらと振られていた。
 いつから振られていたのか、……ごめんなさい。またやっちゃった?
 あたしの悪い癖。
 自覚なく自分の殻に閉じこもって、現実からすべてをシャットアウトしてしまう、変な癖がでちゃったみたい。
 ああ。
 そうそう、携帯だ。早く出なくちゃ切れちゃうよね。
 ぶるぶるとシーツの上で震える携帯を掴み、慌てて通話ボタンを押した。
 耳に当てると、焦れた声が聞こえた。
 ほっとしたと同時に、呆れもした。正直な気持ち。
 たった今、母の居所を知らせる連絡が入ったのだから。
『優ちゃん? あなた、今どこにいるのよぉ〜。何度電話しても繋がんないし、心配してたのよぉ?』
 ああっ、この声は、小町さん。
 焦ってはいるけど、なぜかのんびりした口調は、母の親友の小町さんで。
 っていうことは、母は小町さんのところにいるんだ。
 あー、よかった。
 その言葉だけで察することができて、あたしは一息吐いた。
「お母さん、小町さんのところだったの?」
『そうなのよぉ。律ったら、またなの? ねぇ……』
 またなの? ってこの場合、男と別れたことを意味する。
 懲りもせず男と別れを繰り返す母のことをよく知っているからこそ、短い言葉だけで通じるんだけど。
 母は男と別れるたびに、小町さんのところに逃げ込むのだ。
 そしてどっぷりと甘やかされて、心の傷を癒してもらう。
 癒されて元気が出ると、また新しい男を引っかける。
 別れの痛みをすっかり忘れて、だ。
 でも幸せはそうは続かない。
 原因は喧嘩だったり、相手に手酷く裏切られたり、ただ単に母が男に飽きたり。
 そんなこんなで簡単に別れてしまう。
 けれど、小町さんはそんな馬鹿な母を本心から呆れもせず、毎回のほほんとした調子で迎え入れるのだ。
 それはそれは、ものすご〜くツボを得ていて、上手いんだよね。
 そっか、小町さんだったか。
 忘れてたよ。
 母が行きそうなところって、結局は小町さんのところ以外ないんだよね。
 あたしは自分の額をぽかりと打った。
 でも、まさか、小町さんのところだなんて……。
 ありえないし。
 しかも、自分だけ行っちゃうなんて、まったく厚かましいったらない。
 これこそ、ポリシーの欠片もないってもんだ。
 ほんと、恥ずかしいよね。
「ごめんなさいっ。小町さんのところだなんて思わなくて……」
『まぁまぁ、いいのよぉ。律も、よっぽど行くところがなかったのねぇ。昨日はべろんべろんに酔っちゃって、どうしようもなかったんだからぁ』
 言うほどには思っていない口調の小町さんは、きっと口元に手を当てて、ふふふっと笑っているのだろう。
 もちろんこの三年、家出しなかったからと言って、逃げ込む先を忘れちゃったわけではない。
 母の言いつけがあったから、思い出せなかったのだ。
 あれほど、小町さんのところには行くなってあたしに約束させたのに。自分だけはちゃっかりと行っちゃうなんて。
 もうっ、お母さんなんて、知らない!

 と、言うのも。
 現在、小町さんのところには、大学生の男の子が住んでいる。
 別居中の奥さんとの間にひとり息子がいて、大学入学を機に四年間だけ預かることになった。
 そういう話になった時期から、母は小町さん家に寄りつかなくなったのだ。
 それまでは散々入り浸り、幼いあたしを小町さんに預け、やりたい放題やって遊び歩いていたのに、だ。
 母はなにを思ったのか、親子水入らずを邪魔しちゃいけないから、と理由付けて、行かないようにあたしを諭した。
 小さな頃から幾度となくお世話になり、片時も忘れたことのなかった小町さんを、さぁ、息子と暮らすから会ってはいけないのよ、なんて、おかしいとは思っていた。
 なにかほかに特別な訳がありそうなのに、上手くはぐらかすものだから、あたしは触れられず、いつしか忘れてしまっていた。
 とにかく、母はそういう秘密が昔からぽつりぽつりとある。
 その容姿の美しさに惑わされる男が入れ代わり立ち代わりし、恋多き女は今も健在だ。
 母は美しさや妖艶さに加え、どこか放ってはおけない、守ってあげたくなるような儚さと、囚われ虜になるような可愛らしさをバランス良く持ち合わせている。
 それらを重ね合わせると、どこか謎めいたところが垣間見え、次から次へと謎は生まれる。
 さらに謎から謎を生むせいで、最初の謎を見失い、それならば取り立てて深く追求しなくてもいいや、という気持ちにさせられる。
 だから、謎は謎のまま。
 娘のあたしでさえ、母のパーソナリティーは把握できていない。
 きっとすれ違った数々の男たちには到底理解などできなかっただろう。
 母はただの天然なのか、はたまた計算し尽くしたものなのか、それすら謎だ。
 まぁ、どうせ訊いても納得した答えが返ってくる訳じゃなし。
 母に説明なんて無理なんだ、とあたしの方で諦めてしまっている。
 そんなこんなで、母にはいつも泣かされ、振り回されている可哀想なあたし。
 苦労を背負い込むあたしのことも、少しは考えてほしいって、いつも思うのだけど。

(2009/10/1)


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