と、いっても、謎めいているのは母だけではない。
小町さんも十分に謎ありな人で……。
ここまで読んだ人で、あれ? っと思った人は目敏いお方。
そう、
<――別居中の奥さん……>
と、いうフレーズと、小町さんの女口調なところ。
もうお分かりでしょう? 小町さんの性別は『男』だったりするんだ。これが。
見た目も、男性っていうより、より女性に近く、中性的な印象。
繊細にできた細面の顔に、和風美人を思わせるような涼しげな目元。長めの髪をひとつにまとめている。
華奢な背中に、しゃべり方も女性そのもので。
心も女? っていうか、すごく細かな気遣いのできる、女のあたしでも憧れちゃうような素敵な人なの。
そこで、息子がいるっていうのが、不思議なんだけど、ね。
どういう経緯があって、結婚したのかはわからないけれど、若い頃は男の人だった時もあったのだろう。
今は夜の小料理屋『小町』を営んでいて、けっこう繁盛している。
人柄の良さと料理の腕に、常連客は後を絶たない。
それにあたしの料理の先生でもある小町さんはどう間違って生まれてきたのかわからないけれど、女の中の女なの。
そんな気持ちの優しい小町さんのところに転がり込んだ母を、あたしは簡単に許せない。
「小町さん、ごめんね。とにかく、今から迎えに行くから!」
『……うう〜ん、それがね、律ったら、優ちゃんには連絡しないでって、そればかり言ってね……』
困ったように小町さんは言い淀む。
それだけで、じゅうぶん迷惑かけてしまったのだと気づく。
「じゃあ、お母さんったら、和人さんとの喧嘩の理由、言ってないんだ」
『え? 喧嘩? な〜に、別れてきたんじゃないの? ……でも、そんなこと、まったく、よ。律ったら、なぁんにも言ってくれないのよぉ。ずーっと、だんまり。怒り泣きしながら飲んで、今はつぶれちゃってるわ』
「はぁー、お母さんったら、もうっ」
どんな風に荒れて、つぶれたのか目に浮ぶ。
『優ちゃん? いいのよぉ、こっちは。連絡さえつけば、ひとまずは安心だから。まぁ、律のことだもの、大丈夫よ。しばらくの間、預かるわよ。そのうちに気分も変わって、また新しいロマンスも芽生えるわ。……うふふふふっ』
小町さんったら、なにが、うふふふっ、よ!
楽観的にのほほ〜んと笑っている顔が見えるよう。
「でもそんなこと、許しちゃだめ。ほんと、お母さんったら迷惑ばかりかけちゃって、ごめんなさい。すぐに迎えに行くから!」
『なぁ〜に慌てちゃって。優ちゃん? 律の恋はもう終ったんでしょ? だから家を出たんでしょ? いいじゃな〜い。優ちゃんもこっちにいらっしゃいよぉ〜』
そ、それはないよ。小町さん!
案外と気のない、冷たい言い方にあたしは焦った。
たしかにこれまでは、男とすぐに別れていたけど、今回だけは違う。
「ちがうの! 誤解、誤解よ! ぜんっぜん終ってないんだから。お母さんが勝手に誤解してるってだけで、すっごくすっごく愛されてんだから。わかってないのは、お母さんだけで、……もっ……うううっ……」
悔しいったら。
和人さんの気持ちを思うと、母の馬鹿な思い込みが情けなくて、情けなくて、涙が込み上げる。
『まぁ、まぁ、まぁ、優ちゃん? 泣いてるの? いいから、泣かないの、泣かないの。いい子だからぁ〜』
電話の向こうで、優しい小町さんが必死に慰めてくれる。
ああ、だめ。優しくされると余計涙が出ちゃう。
「おい、何で泣いてる?」
あたしの後ろで聞き耳を立てていたらしい翔が、耳元で訊いてきた。
もうっ、くすぐったいなぁ。
携帯を耳に当てながら横目で睨むと、翔がもどかしそうにあたしの背中の中心をツツツツーっと、上から下へなぞった。
ひっーー!
あたしったら、裸だ。
ベッドの上に座り込み、携帯に向かって涙をこぼしているのだから。
おまけに顔はぐちゃぐちゃ。すっごく間抜けだ。
必死に涙を引っ込めて、だいじょうぶだから、あっち行ってよ、と翔に合図を送ってみせる。
けれど説得力がないせいで離れてくれない。
翔を睨みながら、電話にしゃべりかける。
「と、とにかく、小町さん? そっちに行くから、どこにも行かないよう、お母さんを見張っておいてね。きっとよ!」
これ以上は、恥ずかしい姿を晒したくなくて、さっさと通話を切った。
じろじろと見ている翔に枕で牽制しながら、パンツくらい落ちていないか、床を探す。
……ないか。ないよね。いくらなんでもパンツまで脱がされる意味がわかんない。
「なに? 律さん、見つかったって?」
「うん、お母さんの親友の小料理屋さんにいる、って」
母の泣きながら寝入った姿を浮かべ、溜め息をこぼす。
「迎えに行くんなら、ぼくも行こうか?」
「えっ? い、いい。いいです。あたしひとりで行けるから」
両手で精一杯拒否をする。
だって、翔まで行ったら面倒なことになりそうだもの。
一応ああ見えても小町さんは男だし、翔の口から和人さんの耳に入るとも限らない。
あまり、知られない方がいい。逆に知られちゃ、まずい気がするし。
小町さんは、とってもいい人だけど。あの小町さんを、翔がどう思うかはわからない。なにより説明に困るから。
「なんだよ、他人行儀だな。ぼくと優は家族のようにやっていく、って言ったろう?」
ああ、そうでしたね。
でも、でもね、なかなか言えないよ。小町さんのような人と知り合いで、しかも、仲が良いだなんて……。
だめでしょ、絶対に、秘密でしょ。
「じゃ、甘えて、いまからお先にお風呂をいただいてきます」
これ以上、話を引っぱらない。もう行くべし!
「え? なんだよ、今、すっごくいいところだったんじゃない? ぼくたち」
翔は自分とあたしを交互に指差し、あたしの後頭部に手をまわしてきた。
口端はきゅっと引き上げられ、色気むんむんの顔で迫り来る。
そ、そんなぁ、舐めまわすようにあたしを見なくっても……。
こ、これって、貞操の危機ですか?
「それとも、夜まではお預けってことなのかな? ゆう?」
お、お預け、って――。
ちらりん、と艶っぽい瞳で語りかける翔。
とうぜん、妖しい視線から逃げるでしょ。
……あ、あは、あははははっ。
こんなところに長くいたら食べられちゃう。
逃げるっきゃないでしょ。ここは。
危ない、危ない。
「だって、お母さんを迎えに行かなくっちゃ、いけないんだもん!」
あたしは裸だったことも忘れて、翔のベッドから飛び出した。
追いかけてこないでって願いながら、廊下を走った。
あたしは、寸でのところでバスルームに逃げ込み、火を噴きそうなくらい熱い頬を両手で押さえた。
危なかったかも……ほんとに。
(2009/10/3)