6.

「……きもち、わる……」
「お母さん!」
 母は頭を押さえながら、あたしから小町さんへ視線を移すと、甘えるように言った。
「……くすり、ちょうだい」
「律、ほらぁ、言わんこっちゃないでしょ。飲みすぎだって。今、薬持ってくるわね。あと、具なしのみそ汁も飲んでおく?」
 小町さんは母の答えを待たずに、キッチンに行ってしまった。
 蒼甫さんも、あんだけ飲めばな、って同情する目であたしを見た。
「お母さん、どれくらい飲んでた?」
「ん〜、一升瓶で……これくらい?」
 呆れた顔で、ピースサインしてみせた。
 二本も飲むかな。この人。
 母は完璧に二日酔いの症状で、気持ち悪い、と呻いている。
 そんなの知らない。自業自得だ。
 二日酔いが嫌なら、アルコールなんて飲まなきゃいいでしょ。
 もう数え切れないくらい母に言った言葉だ。
 一度だって聞き入れられたことはないし、もう言う力も残ってないよ。
 だってね、おんなじことを繰り返すんだから。つける薬なんてないんだって。
 それに、勝手に出て行ったことも。
 本当は文句だって言いたいし、捻くれもする。
 だけどな……。
 諦めるっていうのは、こういうことなんだな。きっと。
 あたしは大げさにため息を吐いて見せ、母の額に手を当ててやった。
 いつもひんやりと冷たいあたしの手のひらは、こんな時に役立つのだ。
「優ちゃんの手、気持ちいい〜」
「はい、はい」
 あ〜あ、勝手なことばかり言って、しょうがない人だね。
 透き通りそうな白い肌。すっきりした二重の形の良い目を潤ませ、黒い瞳を揺らしている。視線を下げれば、柔らかそうな唇を小さく開けて。
 この表情だもん。見た男は、皆イチコロだね。
 髪は寝癖でぼろぼろなのに、やっぱりこの人は美しい。
 暴飲暴食の極みをいっているのに、プロポーションも崩れていない。
 週一のネイルサロンに通う以外、なんの手入れもしていないのに美を保っている。
 不思議な人だ。
「ほら、しっかりしてよ」
 いまだ布団の上でひじを突いてぼんやりしている母を、抱き起こして座らせた。
「お母さん、もう気がすんだでしょ? 迎えに来たんだから、今すぐ帰ろっ!」
「……やだぁ」
 やだぁ、じゃないよ。
 横を向いて拗ねている母の肩を揺すってみる。
「帰るよ!!」
 母は、いやいやをして、肩をすぼめている。
 揺すって駄目なら、今度は腕を引っぱってみる。
「いや、帰らない」
 いい加減、しっかりしてほしい。
 飲みすぎたせいなのはわかるけど、あたしは怒ってるんだからね。
「なに和人さんと喧嘩してんの?」
 言いたくもない愚痴も、つい出てしまう。
 黙って俯いている母にたたみ掛ける。
「ね、完全な誤解だって、ほんとはわかってるんでしょ? お母さんの好きな人は誰? ちゃんと言ってみて!」
「……かず、ひと、さん」
「そうでしょ! で、和人さんの好きな人は?」
「……ゆ、う?」
 ちが〜う! な〜に言ってんだか!
「ちがうでしょ! 和人さんの好きな人はお母さんでしょ! あたしのことは好きは好きでも、お母さんへの好きとはちがうでしょ! 和人さんはお母さんのことを、愛してんの!! わかってる? あたしはお母さんの子どもだから、ついでに可愛がってくれてるだけ! わかった?」
 あ〜、力んで言ったものの力が抜けちゃう。あ〜、萎む。
 自分から落ち込むようなこと言って、わかっているだけにね、……凹みもするよ。
 和人さんを好きな気持ちを、今さら気付かされるなんて。
 ほんと馬鹿だな、あたし。
 あー、胸が痛い、痛い。
 これで母が天然じゃないんだったら怒るよ。迷惑しちゃうわって。こんな簡単なことも、わかんないで。
「……だってぇ」
 なにが、だってぇ、だ。
 気の弱いふりしちゃって。
「あたし、もう誤解されたくないから、家を出る。ちょうど住んでもいいって言ってくれる人もいるし。……だから、お母さんは和人さんのところにちゃんと戻るの。いい? 誤解してたこともちゃんと頭を下げて謝るんだよ」
「……でもぉ」
 もう〜、まだ言ってるか、この口は。可愛く拗ねる唇を睨みつけた。
 ほんとにちゃんとわかってるの? お母さん――。
「……って、えっ、なに? 家を出るって、……優が?」
「うん」
 母はぼや〜、と、まだ頭が動いていないみたいな反応して、あたしを見た。
「あたし、家を出るから」
 決めたもん。出るって。
「ダ、メ! 優が家を出るなんて絶対に駄目よ。お母さんは許しません! い〜い? 可愛い我が子を手放す親なんてどこにいるっていうの? この世は危険がいっぱいなの。こ〜んなに可愛い優、くるくる回されて、あれあれ〜って言ってるうちに、騙されて食べられちゃうのがオチなの。そんなことになったらお母さん、泣いちゃうからねっ」
 急に慌て出す母。
 あたしを置いて行っちゃったくせに。こんな時ばかり母親ぶる。
 それに、食べられちゃうって? なにお馬鹿なことを言ってんの。あ〜あ、呆れちゃう。
「もう決めたことだから。お母さんがそんな拗ねた顔しても知りません。家は出るからね」
 そっぽ向いてやる。
「……決定なの?」
「決定だよ」
 そんなうるうると泣きそうな可愛い顔をしても、言うことなんて聞いてやんないんだから。
「べつべつに暮らした方がいい。あたしが出た方がいい。その方がきっとうまくいくよ。お母さんはすっごく愛されてるんだよ。自信持たなくっちゃ! 和人さんが『帰っておいで』って言ってたよ」
 母の頬に伝う涙が、すごく綺麗であたしはただただ呆然と見惚れた。
 やっぱり母を憎むことなんてできない。
「和人さん、怒ってなかった?」
「うん。ぜんぜん怒ってなかった」
「和人さん、呆れてなかった?」
 ほらね、帰りたいんだ。
「うん、呆れてなかったよ」
「ほんとうに?」
「うん、ほんとう。だから、早く帰ってあげて。和人さん、お母さんのこと、ものすごく心配してたから」
 あたしの言葉に安心したのか、頭が冷えて和人さんのことを思い出したのか、母は深く俯き、少女のように頬を染めた。
 ああ、やってられない。
 純真な少女と魔性の女のような振る舞いに、男たちは翻弄される。
 いや、娘のあたしも散々翻弄されまくっている。
 いつも思うんだよね。母はどこまでも恋愛年齢が低いって。
 まったく成長をみせない。あたしが呆れちゃうくらいにね。
 蒼甫さんも居る前で、恥ずかしいったらない。
 まるで子供のおままごとのようなんだから。
「お母さん、和人さんに迎えに来てもらう?」
「……ううん、お仕事があるもの。……優といっしょに帰る」
 やれやれ、帰る気になったか。
 気の変わんないうちに連れて帰らないと、ね。
「うん、帰ろう。帰ったら、和人さんと仲直りしてね」
「うん。仲直りする。……約束する」
 あたしは母と指きりをした。
 これで母はだいじょうぶだろう。
 スリッパの音がして、振り返った。
「あ、ほら、小町さんが二日酔いに効くみそ汁と、薬を持ってきてくれたよ」
 母は、湯気のたったみそ汁と、コップがテーブルに置かれるのを見て頭を小さく下げた。
 小町さんの方を見ると、心配そうな顔のまま、あたしを見ていた。
 あたしはだいじょうぶだよ。
 小町さんに手をひらひらと振って、薄く笑ってみせた。
「小町さん、ありがとう。ほんと迷惑かけてごめんね」
「いいのよぉ。そんなの……」
 もっとほかに言いたそうな顔であたしを見ているのがわかって、鼻の奥がつんと痛む。
「それに、お母さん……一升瓶、二本も飲んだんだって?」
 声を落として訊く。
「うふふっ、二本でも実際は一本分よぉ。こっそりと薄めちゃったもの」
「ああー、だから不味いお酒になったんじゃないのよ〜」
 ふて腐れた母は、小町さんに当たっている。
 小町さんが気をつけてくれたから、これくらいで済んだのに。
 母がこんな風だから、せめてあたしだけでもしっかりしなくちゃって思う。
「優ちゃん、あとでタクシー呼ぶわね。ほら、律も二日酔いの薬、飲んでしっかりするの。あ〜ん、してぇ」
 小町さんは母の口に薬を運んだ。
 まるで親鳥から小鳥にエサを与えるみたいに。
 母は渡された水をこくんこくんと音を立てて飲み下した。
「ん〜、ありがとね! 大好きっ」
 ああ、抱きついちゃって。
 このふたりらしい見慣れた姿だけど、和人さんには、とても見せられないな。
 親友同士、抱き合っている姿は、なんだか不可解な気持ちになってくる。
 小町さんが男だったら、こんなに別れたりくっついたりなんてしないで済んだんだろうに。
 あ。
 もとい。……小町さんは男だけれど。
「な、優ちゃん」
 つんつんと肩を触れられたと思ったら、蒼甫さんが内緒話をするように寄ってきた。
「なんなら優ちゃんは、ここに住めばいいんじゃない?」
 え?
 部屋なら余ってるしさ、歓迎するよ、と。真っ直ぐな瞳。あくのないの笑み。
「律さんと和人さんが仲直りしたのを見届けたら、うちに来たらいい」
 ……ええ?
 驚いて蒼甫さんを見ていると、小町さんも、そうなさいよ、と頷いた。
 どうしよう。
 あたしの住むところ。
 翔のところって思っていたのだけど?
 ……小町さんのところの方がいい?
 あたしの心の中で、翔と小町さんの乗った天秤が左右にゆっくりと振れて映った。

(2009/10/16)


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