7.

 その日の夕方。
 母は喧嘩していたのも嘘のように、和人さんの胸の中に飛び込んでいった。
 あっけない。
 あまりにあっけなくて、悩んだのが馬鹿みたいだ。
 今までどおりに三人で暮らせたらいいな、なんていう甘い考えも浮んだり。
 けれど、あたしは頭を振って追い払った。
 もう繰り返したくはない。
 家を出るって決めたんだもの。
 あたしは、眩しいふたりを横目に、そっとマンションを後にした。
 後ろ髪をひかれて何度もマンションを見上げ、ため息を吐く。
 一歩、二歩進み、そのたびにさみしい気持ちを飲み込んで。
 ときどきは母の様子を見に来ようか。
 なにか美味しいものを届けてみるのも、いいかもしれない。
 そう思い及び、あたしの方こそ親離れできない、どうしようもない娘だ、なんて思った。
 あ〜、こんなはずじゃなかったんだけどな……。
 ふと、エンジン音に目を向ける。
 車は滞ることなく行き交い、あたしだけが、止まってしまったみたいだ。
 ここはマンションから五十メートルほど来たところ。
 あたしったら、ちっとも前に進んでいない。
 きっと、歩みが鈍いから変なことを考えてしまうんだ。
 進む方を見ると信号が点滅して、ほどなく赤に変わった。
 視界に入るのは横断歩道の向こう側。親子と思われるふたりが信号の変わるのを待っている。
 ママと三才くらいの女の子が手を繋いでいる。
 ときどきママは周りを見て、女の子になにかを話しかけている。女の子はそれに微笑み返す。お互いの存在を思いやる、ほんのりと温かい視線。
 ちょっといいな。羨ましいな、と思った。
 ママの方はエコバッグを提げていて、ネギが顔を出している。
 買い物をして家に帰る途中なのだろうか。
 ネギから連想して、今夜はすき焼きかな? なんて。
 帰ったら夕食の準備をして、パパの帰りを待って、仲良くテーブルを囲む。そんな姿が浮かぶ、家族団らん。
 楽しそうな笑い声。今日あった出来事が会話に上って。箸を動かして鍋を突き合う。晩酌する姿……。
 そこまで想像を膨らませ、それは自分の願望だってことに気づく。
 あたしにはそんなものはない。
 家族なんて……。
 ふと後ろを振り返ってみた。
 緩やかなカーブを描く、並木道。
 ここからだと、まだマンションが見えている。
 日が暮れて、明かりがぽつぽつと灯り始め、いくつもある部屋で暮らしている人たちがいて。その中には、母と和人さんもいる。
 みんな、笑っていて欲しい。みんな幸せなら、それでいい。
 胸にぐっと熱いものがせり上がってくる。
 溢れさせないよう、振り切るように前を向く。
 ああ、これってふだんなら見過ごしてしまう視点だよね。
 あたしはなにを敏感になっているんだろう。
 感傷に浸って。些細なことさえ笑って済ませられないくらいに思い詰めて。
 いつの間に、見ていたはずの親子もすれ違い、歩いて行ってしまった。
 生暖かい風が吹く。
 信号はまた赤に変わっていた。
 行くところがないわけじゃない。やらなくちゃいけないことだってある。踏みとどまっている時間なんてないの、と奮い立たせた。
 そうだっ、小町さんに報告しなくっちゃ。
 ちょうど店の仕込みで忙しい時間。メールにしよう。
 肩に掛けていたバッグから携帯を取り出し、小町さんに宛て、無事家に帰って、母が和人さんと仲直りしたことをぽちぽち、と打ち込んだ。
 あ。
 翔にもしないと。
 夕方までには必ず連絡する、と約束したのだ。
 とうに夕方は過ぎている。
 早くしなくっちゃ。
 朝、渡された名刺の番号はすでに登録済み。小町さんへのメールを送信してから、そのまま翔のホルダーを開けた。
 夕方から社内で報告会議がある、と言っていた。
 会議中でも必ず連絡するように、と教えられた直通の番号を選び、呼び出した。
 ワンコールもしないうちに繋がり、びくりと身体が跳ね上がった。
『遅い』
 ひそめた硬い声。ほかに聞こえてくる音はなかった。
 怒ってる。
 けれど、言葉とは裏腹に電話にはすぐ出てくれて、気にしてくれていたことを感じる。ほんの少し喜びを声にのせてみようか、と思った。
「あの、……優です。遅くなってごめんなさい」
『ああ。待って』
 短い相づちの後、クリアに歩く音が響いてくる。
 移動しているんだ。
 今は仕事中。
 迷惑だろうから後にした方がいいのかも、と携帯の向こうにいる翔の気配に耳を澄ます。
 こちらから電話をしておいて、いきなり後で掛け直す、とも言いにくい。
 どうしようか。
『今、どこ?』
 最初の事務的だった低い小さな声が、少しだけ優しく変わった。
「……和人さんのマンションを出たところで、ドラッグストアの辺りですけど」
 黄色の看板に黒い文字。街で見かける、チェーン展開している店の名前を告げる。
 店内から流れるのは何度も聞いたことのあるコマーシャルのメロディー。
 店先のワゴンには、日焼け止め、発汗スプレー、アイスノン、夏の必需品が積まれている。
『ああ、わかった。すぐ迎えに行く。そこで待ってろ! 五分で着く』
<社長? 報告は……>
 会社の人だろうか? 慌てた声は途中になって、通話は一方的に切れてしまった。
 まだ仕事が残っているのでは?
 迎えはいい、ひとりで行けるから、と言う間もなかった。
 また迷惑をかけてしまう。
 それに、今夜は小町さんのところに改めて報告に行かなくっちゃいけないと思っている。
 たくさん迷惑をかけちゃったし、心配されているから。
 住むところも、改めて考えなくっちゃいけない問題と思い始めている。
 和人さんの言う翔のところ? それとも、小町さん?
 どちらもな、って気がしてくる。
 理由は。
 翔があたしを狙っているから。貞操の危機を感じないでもない。
 でも、小町さんのところにも蒼甫さんがいる。今風の男の人で、こちらも狼にならないとも限らない。
 う〜ん。結局は、いっしょだ。
 とりあえずは荷物が置いてある翔のマンションに行く必要があるし。
 どこに行くにしても、だ。
 ううん、待って。時間的には今から小町さんのところに行って、お礼がてら店の手伝いをした方がいい。
 それから、今夜は翔のマンションにお世話になろうか。マンションは大学の近くで定期券もある。駅から徒歩一分の距離は明かりもじゅうぶんあって危険は少ない。夜、遅くなってもひとりでだいじょうぶだ。
 今からでも翔の迎えを断ろうか……。
 う〜、……いまさらだ、って怒られるだろうか。

「なに眉、寄せてんの?」
 むずかしい顔して、だいじょうぶ? 優ちゃん、と覗き込まれた。
「あ、蒼甫さん」
 見〜つけた! という、おどけた表情。
 蒼甫さんの手には、フルフェイスのヘルメット。
 そばに停めたばかりの一二五ccのスクーターにヘルメットを引っかけて人懐っこい笑顔を向けていた。
「律さん、上手くいったみたいだね? 心配だから見に来たんだけどさ」
 器用に手袋を外すと、ジャケットのポケットに突っ込んだ。
「うん、もう当てられちゃったよ。お母さんったら、和人さんを見るなり目からハートマークがいっぱい出てるし。和人さんも会社を早引きして待ってるし。ふたりともラブラブビームが飛びまくってるんだもん。喧嘩したのがウソみたいで。……ほんと、お騒がせだよね。……でも、もうだいじょうぶだと思う」
「そっか、よかったじゃん」
「うん。迷惑かけて、ほんと、ごめんね」
「いや、いいって。それより、小町が優ちゃんを迎えに行けって、すっげー心配しててさ。俺もバイトまでに時間があるし、迎えに来たんだ。そうだ、これからいっしょに飯でも行く?」
 もう一個メット持ってきてるんだ、と。スクーターを指差す。
 黒地にイタリアの国旗。あまり見たことのないスクーターに目を奪われる。
 二人乗りできるスクーター。
「優ちゃん? 俺、安全運転だから平気だって」
「あっ。ううん、……あのね、迎えに来てもらうから」
「え? それって、……彼氏?」
 言う間に、蒼甫さんが視線を流して、あたしの後ろで止めた。
「もしかして、その人?」
 蒼甫さんはあごをくっと動かした。
「待たせたな」
 あたしの耳元で不機嫌な声がぼそりと聞こえた。
 翔が立っていた。
 明らかに蒼甫さんに向け睨みを利かせている。敵意むき出しの顔。
 キレイな顔だけに、恐ろしい。
 朝、送ってもらった時といっしょのスーツは変わらずパリッと着こなし、仕立てのいいスーツはちっとも崩れていない。いい意味で隙がない。
 けれど、整っている顔立ちが、こんな時とても冷たく見えた。
 冷えた視線を当てたまま、翔はあたしの手を取って握りしめた。
 指を交互に絡ませて繋いだ手は、体温が伝わってきて、やけに熱い。
 蒼甫さんの前で、恥ずかしいったら。
「私は本橋 翔といいます。君は?」
 『ぼく』から『私』に言葉使いを変え、戦闘モードに入っているのがわかる。
 頬の熱さが吹き飛ぶほどの速さで、あたしの背筋が凍りついていく。
 けれど。
 蒼甫さんの目は気圧されていなかった。
 明らかに年上で社会人の翔に、蒼甫さんも負けてはいない。
「俺は、小野里 蒼甫。優の……兄って言ったらいいかな」
 兄、という言葉に、あたしはうろたえた。
「兄って?」翔が言葉を挟む。
 あたしは翔を見上げて首を振った。
 ちがうから。
 翔は蒼甫さんに警戒を強めながら、あたしの顔を見た。
 でも、どうしていいのか、わからない。
 また首を、ちがう、と振るだけだ。
 けん制し合う視線。
 これでは、らちが明かない。
 動いたのは、蒼甫さんだった。
「優ちゃん、帰るよ。……本橋さん? 今日のところは、俺が優を連れて帰りますので。……優ちゃん、親父も心配してるし、帰ろうか」
 先手を打った方が勝ちなんだよ、という風に、蒼甫さんはあたしの肩にあるバッグを持つと、あたしの自由な方の腕を取って引っぱった。
 緊張が走った。
 両者のにらみ合いに、あたしは弱弱しく顔を見比べた。
 翔には手を絡められ、蒼甫さんにはがっちりと腕を掴まれている。
 ふたりに心配されているのがわかるから、どちらを取ることもできない。
 視線をふたりに移しては、おろおろする。
 こんな時に経験値の低さが現れてしまう。どうすればこの状況から切り抜けられるんだろう。
 目頭が熱くなってきた。
 やだ、涙が出そう。こんな時、ぜったいに泣きたくないのに。
「……律さん、どうだった?」
 翔の声が降ってきた。
 優しさを含みながらも、蒼甫さんをまるで無視するかの質問に、たちまち悄然とする。
 同時に、手は痛いくらいにぎゅっと力を込められて。
「……う、ん。和人さんのところに戻って、お互いに落ちついたみたい。本当に心配かけてごめんなさい」
 翔は、べつになにもしてないけどな、と言って、あたしの頭を撫ぜた。
 あたしは顔を上げられず、俯いたまま泣くまい、と唇をかみ締める。
 頭に感じるやわらかい感触に、出かけた涙を引っ込めることができなかった。
 堪らず洟をすすって翔を見上げた。
「なに、泣いてるんだ? ん? 痛かったか?」
 翔はうろたえて、慌てて手を離した。見開かれた目。弱ったな、と語る顔。
「あーあ、泣かせちゃったな」
 蒼甫さんも、あたしからすぐに腕を離すと、泣くなよ、と呟いた。
 涙はぽたぽたと落ちてくる。
 悲しくって泣いているんじゃない。この状況についていけなくて、びっくりしたから。泣いちゃだめって思えば思うほど、涙が湧いてくる。
 おまけに、しゃっくりまで出てきちゃった。
 通りすがりに、人が何事か、と見ていく。
 恥ずかしいし、情けないし。ものすごく、居たたまれない。
 あ〜あ、ごめんなさい、と翔と蒼甫さんを見る。
 そろって、参ったな、という顔つき。
 蒼甫さんの方は頭まで掻いて、取り上げたバッグを返すな、と謝った。
 さっきまであった陰鬱な空気が薄れてきた。
 あたしはちょっとだけほっとして、泣き笑いになった。
 落ちついてきた。
「あのね、ごめんね。泣いちゃって。だめだね、こんなんじゃあ。ねぇ、翔は、……会社は? 仕事中だったんじゃないですか?」
 気になっていたことを、ようやく口にできた。
「いや。もう終わったから。……優は、ぼくの部屋には帰りたくない?」
 その瞳、なんて色をしてるんだろう? 寂しげで、甘えたような……。
 見ていると、あたしだって、帰りたくないわけじゃない、なんて気になってくる。
 首を、そういうわけじゃない、と振ってみる。
 だけど、小町さんにはお礼をしないといけない。
「じゃあ、今から蒼甫さんの言うように、お世話になった小町さんにお礼を言って、そのあと翔のマンションに帰ろうかと思います」
「そう、わかった。ぼくもいっしょに行くから。いいね?」
 翔はあたしだけじゃなく、蒼甫さんに承諾を得るよう言い切った。
「ああ。ちょうどいい。話すこともあるし、場所を移そう」
 蒼甫さんは愛想笑いを浮かべて合意した。
 
 結局、あたしは流されている。
 これでいいのかなんて、わからなかった。

(2009/10/22)


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