8.

 並木通りからすこし歩くと細い路地が見えてくる。そこを入るとすぐのところ。和風の戸口からは朝とはちがう柔らかな灯りが漏れていた。
 ガラスの向こうにはお花が、外からも美しく見えるように生けられている。
 視線を落とすと、掃き清められた門口に盛り塩がされていた。
 店に入る前から、期待させてくれる雰囲気を醸し出している。
 隠れ家的な小料理屋『小町』
 もうそろそろ暖簾をかけようか、という時間。
 あたしは翔を案内して扉を開けて入った。
 と、同じ時。
 店の引き戸の音を聞き、小町さんは手をぬぐいながら表情を緩ませた。
「優ちゃん、来てくれたの? メール読んだわよ。律、よかったわねぇ」
 しみじみと。
「うん。ほんとうに。丸く納まってよかった〜。小町さん、迷惑や心配かけたけど、いろいろありがとう」
 言って頭を下げる。
 小町さんは、頷き照れたように笑うと、お入んなさいよ、と促した。
 仕込みを終えたのだろう、カウンターのガラスケースには彩り豊かな惣菜が並べられている。
 季節のものをふんだんに使った、腕によりをかけた小町さん自慢の品々。
 今日のお品書きに目をやる。墨が走っている。と、いうか料理への心意気までもが伝わってくるような出来映え。
 秀逸なんだよね。小町さんらしいっていうか。
 小町風鯖の味噌煮、鰹のたたき、鶏とれんこんのつくね、鰯のピリ辛煮、夏野菜の揚げ浸し、南瓜の煮物、ごぼうの黒酢煮、たことじゃがいもの温サラダ、トマトとズッキーニのスープ、大葉の梅肉のパスタ、ごぼうと牛肉のご飯、小豆のケーキ、胡麻かん。
 ずらり、勢ぞろい。
 ん〜、美味しそう!
 視覚にも、もちろん匂いにも刺激されて、お腹が空いてきた。
 小町さんがあたしの後ろに視線を向けたのをきっかけに、後ろに下がって翔の隣に並んだ。
 翔は小町さんをどんな風に感じるのだろう。
 それを思うと、緊張する。
「小町さん。この方が和人さんの息子さんで……本橋 翔さん」
 小町さんと翔が向かい合う。
「初めまして。本橋です」
 まっすぐ小町さんに視線を向けている。
「あら、まぁ、この方が?」
 小町さんの言葉遣いに変化はないけれど、見たことがない真剣な顔をしている。
 いったいどうしちゃったの?
 いつもの柔らかな雰囲気がすっかりと消えて、小町さんでいて小町さんでない。
 いつにない厳しい表情に驚き、あたしは息を飲んで見ていた。
「私は、優の父親で、小野里、といいます。あなたは、本橋さんとおっしゃいますのね? いろいろとお世話になっているそうで、ありがとうございます。本橋さんと優とのことは、さきほど帰ってきた息子の蒼甫から聞きました。……それで、優のことは大切にしてくれますの? 泣かせることになったら、一生許しませんことよ」
 ぴしゃりと言い放った。
 え――。
 ええ?
 待って! 小町さん?
 父親って――。
 いま……父親って、言わなかった?
「あたしの?」
 お父さん。……小町さんが?
「お父さん?」
 小町さんは、あたしの方にゆっくりと視線を移し、うふふふっ、とおっとり笑った。
 いつもの小町さんに戻っている。
 あたしは驚いている間に引き寄せられ、小町さんに抱きしめられていた。
 料理の匂いが染み付いている割烹着。
 こつん、と胸にすり寄せてから、小町さんを見上げた。
 お父さん?
「そうよ。わたしの可愛い優ちゃん。ごめんね。黙っていて。……小さい時から、父親がいないせいで嫌な思いをしてきたよね。優ちゃんに寂しい思いをさせて、本当にごめんなさいね。……いつか言わなければならないって、ずっと思っていたのよ。わたしなんかが父親を名乗っていいものか、ずいぶん悩んだりして、ね。律にも本当に悪いことをして……」
 小町さんは言葉を詰まらせた。
 目から涙が、ぽろぽろっと零れ落ちた。

「小町、あとは俺から説明すっから」
 先にスクーターで戻っていた蒼甫さんは、カウンターにあった手ぬぐいを掴んで、小町さんの顔をごしごしと拭った。

「優ちゃんも少しは知っている通り、俺は華道『小野里流』三代家元の子で、父は俺が生まれたあとすぐに死んでいる。
母は流派のちがう華道の家の一人娘で、父との結婚を反対されていて籍を入れてなかったんだ。
母の実家は跡継ぎがいなかったから、まだ若かった母と俺を欲しがって連れ戻そうとしたらしい。
でも先代の祖父は、母と俺を手放す気なんかなかった。
そこでどうしたかっていうと、
母と父の弟である小町を結婚させて、四代目に据えようとしたんだ。
だけど、小町はすでに小料理屋を開いていて、家元には興味がなかった。
で、小町は家元にはならない代わりに形だけの結婚を受け入れたんだ。
……でも皮肉なもので、結婚のあと小町と律さんの間に子供が授かったってわかって、……それが優ちゃんだよ。
小町が俺の母と結婚してなかったら、…………小町は律さんと結婚していたと思う」
 そうだよな、と蒼甫さんは涙する小町さんに向けた。
 それに、小町さんは答えなかった。

 蒼甫さんのお母さんと結婚していなかったら、お母さんと結婚していた?
 そんなの誰にもわからない。
 でも。
 小町さんは、どうして形だけの結婚なんかしたの?
「どうして?」
「それは……」
 と、小町さんは言い淀んだ。
「母と俺を小野里の家に縛り付けておくためさ」
 蒼甫さんは誰とも目を合わさず、苦く呟いた。
 そんな、……ヒドイよ。
 家を守るとか、伝統とか、文化を繋いでいくというのは、そんなにしてまで必要なことなのだろうか。
 愛してもいない人と籍を入れる。
 そこまで守らなきゃいけない家って何なんだろう。
 たまたまその家の子どもに生まれてきたっていうだけで、縛られなくっちゃいけないなんて、不幸の何ものでもない。
 なんか、悔しいよ。
 あたしは唇を噛みしめた。
「でもさ、結局は利害の一致なんだよ。小町は母と結婚することで、華道の家に縛られずに自由に生きることができたし、母も実家には戻りたくなかったっつーか、死んだ父の代わりに小野里流を守りたかった。父を愛していたんだと思うよ」

 今になってはどうにもならないって、わかっている。
 過去の事だって片付けられることなのも。
 けれど、わかっているから、どんどん身体の中の力が抜けていく。
 あたしは、小町さんの子どもで。
 小町さんは、あたしのお父さん。
 お母さんったら、なんにも言ってくれないから……。
 知らなかったよ。
 あたしには父親はいない。……ずっとそう思ってきた。
 誰の子かわからないと思って生きてきた。
 母は小町さんと結婚したかったのだろうか。
 あたしに父親のことを言えなくて、苦しかったのだろうか。
 母はどう思っているんだろう?
「小町さん。お母さんのこと、今でも好き?」
「……そうね、好きよ。律とは小さい時からいつもいっしょだったし。きっと、わたしを一番に理解してくれる人だと思うわ」
 あんな風だけどね、と小町さんは泣き笑いして言った。
 うん。うん。そうだよね。
 それは母も同じ思いでいると思う。
 あんな風でフラフラしててちゃんとしてない人だけど、小町さんを一番に信頼してずっとやってきた。
 あたしは、母にはもちろん、小町さんからも十分すぎるくらい、愛されてきた。
 あたしはずっと、幸せだった。
「優ちゃんが生まれた時、ほんとうにうれしかったのよ。律と名前を考えて、ね。わたしの名前の優甫(ゆうすけ)の優の字を取って、『優』にしようって言ってくれたのも律なの」
 目を細めた小町さんは、昔を思い出した様子で息を吐いた。
 そうだったの。小町さんから名前をもらったんだ。
「小町さん、ありがとう」
 小町さんはあたしの涙を拭うと、いつもより長くあたしを抱きしめた。
「許されることではないけれど、本当にごめんなさいね。優ちゃんのこと、大好きよ」
 小町さんの言葉があたしの耳を心地よくくすぐった。

「そろそろ、いいでしょうか。優を放してもらって」
 それから、最初の質問の答えですが……と、翔は底冷えしそうな声で言った。
 小町さんが突きつけた質問。
<優のことは大切にしてくれますの? 泣かせることになったら、一生許しませんことよ>
 その答えは……。
 あたしは、翔の目に釘付けになった。
「私は、優を泣かせることはしません。それに、大切にすると誓います」
 そういうことで、ぼくに優を返してもらいます、と。
 小町さんからあたしを取り返すと、腕の中にすっぽりと包み込んだ。
 背中に感じる、温かい居場所。
 ああ、あたし、幸せだ。
「帰ろうか。優」
 もう用は終わっただろう? と、あたしの耳元にこっそりと落とす。
 甘い声で。
「まぁ、まぁ、まぁ、聞こえたわ! 嫉妬深い男なんて嫌われるわよぉ。せっかくだからあなたたち、お夕飯を食べてお行きなさいよ」
 やんわりと、まだ返しませんよ、と引っぱられた。
 小町さんは見えない炎を灯し、阻止する気満々だ。
「やれやれ、俺のこと忘れてねー? 優ちゃんと俺は従兄妹同士だけど、結婚だってできる間柄なんすっけど?」
 俺のこと、忘れてません? お二人さん、と。蒼甫さんは自分とあたしを指差して、名乗りをあげた。
 後ろからも前からも横からも、怪しい視線がビシバシ飛び、あたしは翔の腕の中に閉じ込められてしまった。
 う〜ん。なんだかややこしいことになってきたような……。
 あたしは身体を縮めて、三人から目を逸らした。


 翔のマンションに帰ったのは、夜の十時を回った頃。
 あたしは散々食べて、飲まされて、ほろ酔い気分で戻ってきた。
 翔の手には、あたしの汚点? 二年の時のミスコンの写真が握られている。
 大きく引き伸ばされた写真が……。
 ああ、いつかこっそりと処分してやるんだから! 覚えてなさいよ、翔。
「優!」
 あ。
 お母さん。……和人さんも。
 翔の部屋では、顔色を変えた母と和人さんが待っていた。
「優ちゃん、こんな時間までどこに行ってたの。和人さんからここのマンションの三〇三の部屋にいるって聞いたから迎えに来たのに、どうしていないのよぉ〜。心配したんだからね〜」
 え。
 そうなの?
 あ。そういえば渡された紙に書かれた住所には三〇三、と書いてあったかも。
 翔に訊くと、そんなの知るかよ、って顔で取り合ってくれない。
「優。あなたにはまだ早いわ。男といっしょに住むなんて、許しません! もう、いったいあなたたちは、どこまでいっているの?」
「……あのねぇ、どこまでって? なんにもないに決まってるでしょ!」
 まったく、お母さんじゃあるまいし――。あたしは心の中で毒を吐いた。
 母は落ちつきなくなくコンソールテーブルを叩いているし、和人さんも側に立って腕組みをしている。
 ふたりの怒りに触れるのは怖いけど、家に帰る気なんてぜんぜんしない。
 けれど、酔いが回ってて上手く言葉が見つからなかった。
 結局、言いたいことを伝えるしかないんだ。
「なんと言われようと、あたしは帰りません。翔といっしょに暮らすんだから!」
「な、なにを言っているの? 同棲なんて、許しませんっ! 優、自分の言っていることがわかってるの? お母さん、そんなふしだらな娘を産んだつもりはありませんっ」
 母は血を上らせて興奮している。
 ふしだら、なんて母の言葉には思えないっつーの。
 あたしと母は睨み合いになった。
「優ちゃん。私も律さんと同じ意見だよ。翔といっしょに住むのはあまり感心しないな。ここは翔が所有するマンションだけど、ちょうど三〇三の部屋が空いているって言うから紹介しただけだ。家具もそろっているし、ひとり暮らしがしたかったら、そこですればいい」
 和人さんとしても、今は反対するしかないよね。
 家に帰らなくてもいいなら、あたしはそれでいい。
「……わかった。三〇三に住む。翔とは別々に暮らすから。お母さん、それならいいでしょ?」
「優? 勝手なことを言うなよ」
 翔の顔が歪む。
「翔。いいじゃないか。同じマンションなんだ。いつでも会える」
 和人さんは翔を止めに入っている。
「そんなこと言っても、優の作るごはんが食べられなくなるのは困る。親父の言った通り、すごく美味かったんだよ。でもさ、作ってもらうのに、わざわざ行ったり来たりするのなんて面倒だって。そうだよな、優」
 たしかに面倒かも。あたしは、こくん、と頷く。
「……ごはんか。そうだな。優ちゃんの作るごはんは美味しいからな。そういうことなら、私も律を連れて、毎日ここに通って来るのもいいな」
 なぁ、律、と。和人さんは母と顔を見合わせた。
 なんだか、言ってる主旨がだんだんズレてきているような……。
 あ〜あ、前途多難だな、あたし。

(2009/10/24)

今回、おまけ話を書いてみました。
ちょっとした下品な表現があります(汗)
それでもよろしかったらどうぞ(えみ) ↓  
こちら


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