母の家出騒動から二週間。
結局。
翔の言う通り、あたしは翔の部屋に住まわせてもらっている。
とくに思い悩むところも見当たらず、快適に暮らしていて、家を出たことを後悔することも、母と和人さんのところに戻りたいと思うこともない。
いっしょに暮らすにあたって、役割分担というか、できることをしようね、と。お互いが無理しないでいいように得意分野、適任等を話し合い、あたしはごはんと洗濯を、翔は郵便物の整理とゴミ捨てを、分担することになった。
掃除はこれまで通り、専属のハウスキーパーさんがしてくれていて、本当に楽チンな暮らしなの。
あたしの硬い言葉づかいもいつの間にか取れて、言いたいことも言って、緊張もなくなった。
喧嘩らしい喧嘩もないし、けっこう仲良くしている、と思う。
思っていたよりも、楽しんでいる、って言っていいんじゃないかな。
とりあえずあたしとしては、不満に思うところがないってくらい、順調だ。
まぁ、すべてが思い通りって訳にはいかないけど、ね。
それは。
毎日、母と和人さんが翔のマンションに通ってくることだ。
「今日も来たんですか。いい加減、ぼくと優のふたりだけの時間を邪魔しないでもらえませんか」
翔は母たちの訪問を、げんなりした表情で迎えると、大げさにため息を吐いてみせた。まったく歓迎している素振りを見せない。
けれど、あたしは知っている。言葉とは裏腹だってことを。
「優、今日の夕食のメニューはなに? 決まったらメールしてくれる?」
朝、出社する前に必ずそう言って出て行く。浮かれた調子で。
うっかりメールをし忘れると、不機嫌な声で電話を寄こすのだ。
「夕食のメール、まだ?」
あたしは、あ、いけないっ、忘れてた! ってなことになる。
「ごめん。今夜はね、焼肉に決まり! 和人さんから焼肉用のお肉が届いたの。中には分厚い牛タンも入ってて、すっごく美味しそうなの。それでね、バルコニーでバーベキューしようってことになって、今、準備してるところ。炭火で焼く方が美味しいでしょ?」
「へぇ、焼肉か。いいね。じゃあ、ビールがいいな。樽生を用意するか」
「うん。ビアガーデンみたいでいいかも。そうだ、ビールジョッキを冷やしておくね」
翔はこんな風に料理に合わせた飲み物を用意したり、和人さんや母の好みのお酒をチョイスして喜ばせてみたり、お酒に合わせ美味しい飲み頃まで管理している。
なによりも、食事の時間を待ち望んでいるのだ。
四人で囲むテーブルを楽しんでいるのは、むしろ翔の方。
小さい頃から家族で団欒を囲むことのなかった翔は、その時間を取り戻すように大切にしている。
夕食の時間には必ず家に帰って来れるよう、仕事の調整をする念の入れよう。
また、母にも変化があった。
ひとりで飲み歩かなくなったことだ。
肝臓を労わって無茶をしなくなった。夕食の時や食後に楽しむ程度になって、安心して見ていられるようになった。
それにいままで家事に見向きもしなかった母が、たどたどしい手つきながら料理をお皿に盛り付けたり、時には洗い物を手伝ってくれたり。これはあたしの中で、すごい進歩だと思っているの。
だってね、綺麗な爪でいるためにケアすることはあっても、逆はありえなかったから。
ま、相変わらずのところもあるんだけど……。
和人さんとあたしには、今も敏感に反応する。ちょっとでもあたしと和人さんが微笑み合おうものなら嫉妬丸出しで拗ねちゃうんだもの。母らしいっちゃらしい、わかりやすい行動。
でも、以前とちがうのは、和人さんの為せる技。それをスパイスに母とラブラブモードにもつれ込んでしまうのだ。
ああ、計算高い大人って怖い。
目の前で見せつけるようにいちゃいちゃするんだから。
翔がほかでやってくれ、と目を背け、イジケるくらいに。
それはそれは、甘いムードで。
嫌んなっちゃう。
その和人さん、と言えば、相変わらずあたしに優しい。
甘い物に目がないってことを知ってから、地方の美味しいものを取り寄せたり、デザート担当を買って出て、流行の物にアンテナを張り、新しいスイーツ探しにも余念がない。
あの完璧なパーツに端正な顔、すっきりとした立ち姿。女性なら、皆振り返ってしまうぐらい魅力的なオトコが、ケーキ屋に自ら足を運ぶ姿なんて、誰が想像するだろう。
四人での夕食。
それぞれが係わりを持ち、夕食を楽しい時間にしようという気遣いがうれしい。
話し合ってもいないのに、まるでほんとうの家族みたいでしょ。
だから、あたしもなにかできないかなって考えて、勉強を始めた。
長い休みを利用して、料理とパンのカルチャースクールに通っている。料理だけじゃなく、テーブルコーディネートなんかも教えてもらえるのだ。
夕食が楽しめるように、精一杯がんばっているところなの。
今夜もまた、夕食が始まった。
バルコニーは賑やかで、陽気な空気が漂っていて。
夜空を眺めつつ。上等なお肉を前にして。顔は緩みまくり。
炭の爆ぜる音。お肉が脂を滴らせ香ばしく焼けるのを、まだかな、まだかな〜、と口ずさむ。
トングで素早くひっくり返す。となりの牛タンもいい感じ。肉の表面がじりじりと焼けて。とうもろこしも頃合い、くるりと回す。
「優、それ、焦げてる!」
わぁ、炭の威力がすごくて、ピーマンが燃えつきそうな勢いで焼けてきた。
あたしは、煙りと熱気に仰け反りながら、慌ててお皿に取り出した。
火力が強くなると、お肉もあっという間に焼きあがる。
ほいっほいっと、順番に焼けたお肉をのせていく。
焼きあがったそばから、手が伸びてお腹を満たしていく。
「お肉、柔らか〜い。さっすが松阪牛」
「律、牛タンには塩だろうか……」
「そうね、塩にレモンじゃない? 優、レモン搾ってぇ〜」
和人さんも翔も、バーベキューを自分たちの手でするのは初めてなんだって。 勝手がわからないって顔をしている。
母はとうぜん食べる専門。戦力外で手がかかってしょうがない。
あたしはあっちもこっちもで、忙しい。
翔は手伝おうと炭の前にいるんだけど、目をしょぼしょぼさせててそれどころじゃない。
「翔、こっちにおいでよ。煙たいでしょ?」
風下で煙をまともに浴びている翔を招き寄せた。
翔は目を擦りながら、あたしの隣にやって来る。
あ〜あ、涙目になっちゃって。
それでもお肉をひっくり返そうと奮闘している翔を見て、ぷっと吹きだしてしまった。
「笑うなよ。ほんと、目に沁みるんだって。優はよく平気だよな」
ゴーグルがいるって、と。本気でボヤいている。
「あたしは年季が入ってるからね」
ああ見えてアウトドア好きの小町さんは、休みになるとよくキャンプに連れて行ってくれた。魚釣りもトレッキングも経験がある。話すと翔は目を大きくして驚いた。
人生っていろいろ。アウトドアを楽しむ人もあれば、まったく経験しないで過ごす人もいる。
いつかキャンプに行こうか、とお喋りする。
お肉を気にしながら、空を見上げて。ときどき会話して、食べて飲んで口を動かす。
それにしても今夜は、いい日だ。
「なんだか特別な夜になったよね」
「ああ。そうだな。優は知ってたの? 今夜のこと」
「ううん」
知らなかったよ。
翔の視線を辿った先を見ると、和人さんが目を細めてにっと笑っていた。
悪戯を働いた瞳だ。
親父かよ、と。翔は呟く。視線を下げて。でも目はうれしそうに笑っている。
「サプライズ、成功ですね。……そっか、それで期日指定でお肉を注文したんですね」
あたしは和人さんに問いかける。
「ああ。こうやって外で食べるのに、ちょうどいいメニューだと思って」
和人さんは答えながら、器用に樽生サーバーを操る。ジョッキを傾け、黄金色の液体を静かに注ぐ。七分目まできたらビールの上に泡をのせて。
上手にビールを入れるな、と見た。
和人さんは、翔の手から空いたジョッキを取り上げて、入れたばかりのビールを差し出した。
受け取った翔は、ごくっごくっごくっ、と喉仏を動かして勢いよく流し込み、美味しそうに飲み干すと、息を吐いてジョッキを掲げてみせた。
和人さんの翔を見る目は優しい。
「仕事の後のビールは格別に美味いだろう?」
「まあね。ここのところ、やたら仕事が増えてましてね。土日返上で半端ない量をこなしてるんですけど。いったい誰のせいでしょうね」
じろり、と翔が睨む。
和人さんの顔色は変わらない。
「へー、そうなの?」
と、和人さんは含み笑いで答えた。
「ふん。白々しい。これ以上面倒な仕事は送らないでほしいんですけどね」
翔は直接怒りをぶつけるでもなく、悄れている。あまり見ない顔。
親子の関わりが薄かったせいで、翔には照れがあるらしい。言葉づかいもふつうとちがっているように思う。
父と息子の会話は始終こんな調子だ。
ひゅー、と小さい光が上っていく。一瞬消えた光がふたたび現れ、大輪が広がった。
ひとつ、また、ひとつ。夜空に花が咲いていく。
新作もカラフルな花火もステキだけど、あたしは大きくて開いた花火が柳のようにちらちらと光りながら落ちていく、昔からある花火が好き。
大きく上がった花火が途中枝分かれして小花になり、線香花火のように繊細に変化するのもいいかも。
神宮花火大会。
新宿副都心の夜景をバックに花火を望む。
四人の視線は前方に広がる夜空。
大きな赤い花火が咲く。あとから遅れて音が響き、胸を揺する。
バルコニーでゆったり見られる花火なんて、最高の贅沢。
ここから見える花火は遮る建物がなく、まるでプライベート花火と錯覚してしまいそうなほど、絶景だ。
普段なら外はビルの灯りでもっと明るい。今夜は花火のために付近の電気を意図的に消しているから、花火がすごく映える。
都会の真ん中で、光溢れる花火が見られるもの不思議。
開いては消え、時間にしてはとても短い光りの花は、刹那的で儚く、人々を魅了する。
仕掛けられた花火が連続して上がり、花火が重なり合う。
隣には翔。並んで刻み付けるように、見入った。
「ほらっ、あなたたち手なんか繋いでないで、お肉、焼くのよ! ジャンジャン焼いちゃって! あ〜ん、ビールが足りないわぁ。早くこっちにちょうだいよぉ〜!」
翔は、また邪魔をする、とむくれながらも、しょうがないな、と母にビールを運んで行った。
母はビールを受け取ると、翔に笑顔を振りまいている。リクライニングチェアの上で和人さんにしなだれかかり、飲んで食べて上機嫌だ。
和人さんも母を抱き寄せ、静かに笑っている。
見ちゃいられない。
だけど、みんなの美味しい顔を見られるのが、あたしの幸せ。
そんな幸せな時間が、あたしは好き。
少し強い風が吹いて、炭の燃えカスが舞い上がった。
煙たい、と顔をしかめていても、笑いが止まんない。
めちゃくちゃ、楽しいっ。
最高!!
花火も佳境にはいっていった。
打ち上げられた花火が幾色にも混ざって次々に上がる。これでもかって、たたみ掛けるように。重なり合った花火がちりちりと弾け飛び、光が夜空に落ちていく。
「すっご〜い! キレ〜」
あたしだけの声じゃなかった。
おなじマンションのほかの階からも歓声が上がっている。拍手の音も。
あたしたちは、食べるのも飲むのも忘れて、花火に酔いしれた。
みんな、おなじ景色を見ている。
大きい光りの玉が尾を引いて上がっていく。
期待がふくらむ。
高くまで上がりきると、一瞬真っ暗になった。
そのままの視線。
と、光りの玉の消えた中心から光がかぶさるように広がった。
うわぁ、おっきい!
奇声とともに、誰かの口笛が聞こえた。
息を飲む。
これまで見たなかで一番大きいかも。
ぽろん、と。
あたしの足に何かが触れた。
花火に気をとられすぎて、枝豆をうっかり取り落としたらしい。
気づいたけれど、目はそっちには向かない。
夜空の残像を見るように、きらきらと白い光が弧を描いていく。
名残惜しいというように煌めいている光りたち。
キレイ。
息を止めて見つめた。
遅れて身体を突き抜けるような音と揺れがやってきて、ようやく息を吐いた。
花火の余韻がいつまでも後を引く。
静まり返っていた場所に音が戻ってくると、あたしのなかで止まっていた時間も進み出す。
「いまのキレイだったね〜。おっきくて、きらきらが長かったね〜」
手探りで枝豆を摘まみ、豆の感触を確かめる。さやを含むと、豆を押してころんと取り出す。
塩気の効いた豆の味を噛みしめた。
「ああ。たぶん、今ので最後だな」
隣に座る翔が小さな照明にかざして時計を見る。
あたしは興奮が覚めないまま、また枝豆に手を伸ばす。
ほんと、キレイだった。
もっと見ていたい。
夜空を見たままでいた。
もしかして、また上がるかもしれない、なんて思って。
花火の上がった空は白く煙っている。
摘まんだはずの枝豆は、翔の手だった。
苦笑がもれる。
離れていくはずだった手に握りしめられていた。
絡み合った手が熱い。翔の指があたしの指先をなぞる。むず痒い感覚が伝う。そこからぐんぐんと熱を孕んでいく。
恥ずかしい。
片手にはジョッキ。ちびちび飲んでいたビールをくっと飲み干した。
アルコールが沁みていく。
もっといっしょに見ていたいよ。
欲が湧く。
触れている翔に、力をあずけてしまおうか。
視線を上げると、翔の顔がくっつそうなほど間近にあった。
熱のこもった瞳。
心臓が早く打ち始める。
「優!」
突然の声。
「駄目じゃない、優。枝豆ばかり食べてないで、ほらっ、ちゃんとお肉も食べるの。そんな細っこい身体ではちっとも美味しそうに見えないんだからね! そうよねぇ? 翔くん」
母はあたしから翔に目を移すとロックオンとばかりに微笑んだ。
翔は気まずそうに視線をそらすと、あたしからふいと離れていってしまった。
熱が音を立てて引いていく。
あーあ、また邪魔されちゃった。
あたしが固まって反応できない間に、お皿に、二枚、三枚と焼けたお肉が乗せられていく。母は容赦ない。
「も、お腹いっぱいだってば!」
頬を膨らませる。
もう食べられないよ、と。視線をしょんぼり下げて、おなかをさする。
枝豆がぽつん、ぽつんと足元に落っこちているのを見つけた。
一つ、二つ、三つ、四つ……。
駄目じゃん、あたし。落としすぎ。
枝豆が点々と転がっているのを見て、笑いが込み上がってきた。
もう、ヤケクソだ。
あれ? あたし、笑い転げてる? 酔っ払ってる?
だって、これでも、楽しいんだもん。
幸せなんだも〜ん。
「おい、優。だいじょうぶ? もう部屋に入るか? ……って、親父、いつまでいるつもりなんですか。明日の会議で朝早いのでは? ほら、迎えを呼ぶから律さん連れて帰ってくださいよ」
ああ。また始まった。
「翔くん、そんなこと言って優といいことしよう、と思ってるんでしょ。律さんはすべてお見通しよ」
夕食が終わると、こんな風に両者の睨み合いと牽制が始まる。
居座ろうとする和人さんと母に、翔は爆発寸前だ。
あたしは、そんな三人のやり取りをスルーして、さっさとお風呂に入ってしまう。
恨めしそうな翔の顔をちらっと見て、ひらひらとお休みの合図を送る。
あたしが部屋に入ったところに、和人さんが扉越し、外には餓えたオオカミがいるから気をつけるように、と。鍵をかけるのをきっちりと確かめていく。
「優ちゃん、また、明日」
母はおやすみ〜、と言って離れて行く。
三人はそのままリビングで飲み直す時もあって、母と和人さんはふたり掛かりで翔を、散々からかってから帰っていく。
聞くに堪えない大人の猥談をあたしに聞かせないでよ〜!
あたしをこれ以上、耳年増にしないでほしいんだけど。
そして。
静かになった真夜中過ぎ、翔の雄叫びが聞こえてくる。
「あ〜、もう、いい加減にしてくれよ! 優、出て来いよ! 優、寝るな〜! くっそ〜、こうなったら飲んでやる。飲まずにいられるかっ!」
あらら。人格が崩壊してるし。
あまりお酒を飲みすぎないようにね。
おやすみなさい。翔。
翌朝。
ビジネスシャツを羽織った翔がリビングに現れた。
また飲みすぎたのかと呆れたけれど、今日も仕事には行く気でいるみたい。
「優。……もらえる?」
しゃべるのも億劫。翔は弱々しくちょうだいと手を出した。
目の下はくぼみ青白い。可哀想なほど、やつれている。
心なしか足元も頼りない? よほど辛いのか、ソファーに倒れこむと、両手で頭を押さえつけた。
そのまま動かない。
これでは朝食は無理そうね。
日課の新聞にも見向きもしない。経済新聞は仕事に必要だから、と必ず社会の動向をチェックしてるのに。
でも、ここ数日連続して見る朝の光景だったりする。
「翔、ここのところ続いてるね。はい、これでも飲んで元気を出して」
テーブルに二日酔いの薬と水入りのグラスを置いても、反応はなし。
あらら、重症だ。
目はぼんやりと開くものの、目が据わっている。
爽やかな顔が台無しじゃない。
こんな風に追い詰められている翔が可哀想に思えてならない。
「だいじょうぶ? 今日は、休んじゃう?」
一日くらい休んだら? 本気で言いたくなる。
「……ううっ、休めるもんだったら、とっくに休んでるよ。っとに、親父は毎日毎日どうでもいいような仕事を送ってくるし、やってらんないよ。くっそ〜、溜まってしょうがない」
ヤケクソ気味に吠え、は〜、もうどうにかなりそ、と。頭を掻き毟った。
相当、溜まっている様子。
あたしにできることは、美味しいものを作ってあげることくらい。
ストレス解消メニューなんてあるのかな?
まぁ、とりあえず、好きなものでも食べたら元気が出るかもしれない。
「ねぇ、今日は翔の好きなものでも作ろうか。なにが食べた〜い?」
訊いた途端、翔が勢いよく起き上がった。
「それを言うなら、優、頼む。ちょっとだけ補給させてくれ!」
え?
な、なに?
ちょ、ちょっと、待ってよ〜!
(2009/11/2)