10.

 ……ここ、翔の部屋?
 ひゃーー!!
 いつの間に。あたしに覆いかぶさってるの?
 翔の瞳はぎらぎらと光り、怪しい色を放っている。まるで獲物を狙う肉食獣のよう。
 こ、怖すぎっ!
「なにが食べたいって訊いたよね? ぼくがそれに答えたら、優はぜったいに応えてくれるんだろうな」
 そ、それはまぁ、高級料理なんて作れないけどさ、と思う。
「ぜったい、とは言えないけど、リクエストにはあたしなりにがんばって応えるつもりだから」
「ふふん。ぜひ応えてもらおうじゃないの」
 翔はあたしを見据えている。
 意地の悪い笑みを貼り付けているような? で、ちょっと危険な香りがするのは気のせい?
 それだけじゃなくって、すごく近いんですけど? 顔が。
 なんなの? 二日酔いのせいでおかしくなっちゃった?
「どうして、後ずさってるんだ? 優」
 だ、だって、ここはベッドの上だし……。
 視線を走らせれば、上半身裸。さっきまで羽織っていたビジネスシャツはどこに行っちゃったのかな? これはぜったいに怪しい。
 男をぷんぷん匂わせるような逞しい胸で、やたら色気を振りまくってのは反則じゃないの? 居心地が悪いったらない。
 仰け反って離れようとしても、あたしの身体はびくとも動かない。
 見ると、程よく筋肉のついた腕に阻まれ、両肩を掴まれている。
 この状況、非常にマズいんじゃ?
 このままじゃ、あたしの方が料理されちゃう?
 焦りが増す。
「ちょ、ちょっと待ってよ! むずかしいのは駄目だからね」
 釘を刺してみる。
「ああ。優なら、簡単だ」
 簡単って、ほんとうでしょうね?
「じゃあ、なにが食べた〜い?」
「それじゃ。正直に言わせてもらうと……」
「もらうと?」
「それは……」
「それは?」
 ふん、ふん。なによ。早く言っちゃってよ。
「……」
 ……だから、なに黙ってるの。
 ん? 翔ったら、口に手を当てて。
「なによ。勿体つけてないで答えて!」
「だからさ、…………優、だよ」
 ぼそり。
 え?
 口を覆ったまま視線を落とし、言い難そうに白状した言葉。
<優、だよ>
 待って、待って。……あたし?
 疑問が飛ぶ。
 ……そんな料理はないんじゃ?
 って、ちがうか。
 どんな顔で言ったのか。ちょっとばかし顔が赤いんですけど。
 ほんのりと染まった頬をつんつんと指で突いてみた。
 もしもし?
「……っ、もう、いいだろ? ――優がほしい! 優を食べたい!」
 あらら……開き直ってるし。
 でもね。
「そんなの、――駄目! 却下っ!」
 やだよっ! 食べられてたまるかっつーの。
「なんだよ。却下って」
 唸り声を上げると、翔は隣に寝転んだ。両腕で顔を隠して、しまいには大きな大きなため息を吐いてしまった。
 今度はイジけてるし。
 ん……可哀想かな? やっぱり。
 だってね。
 ここに住んでから、甘い雰囲気どころか、キスのひとつもしていない。
 ふたりの関係に依然進展はなし。
 一番の問題は、母と和人さんなんだよね。
 和人さんが持ち込む面倒な仕事をこなすため、翔は仕事漬けになっている。
 翔は、翔で夕食の時間を大切にしたいからって、夜の八時以降のスケジュールを無理やり空け、調整した残りの分は土日を返上して仕事に充てている。
 母も毎日邪魔しに来るし、男は焦らしてなんぼ? と悪女の笑みを浮かべている。
 そんな風だから、ふたりでゆっくり語り合ったり、愛を深める時間もない。
 それと。
 あたしにも問題があるんだ。
 いまひとつ気持ちがついていかないっていうか。翔、というよりも、男の人とどう接していいのか、わからない。
 不安で堪らない。
 母のように、素直に飛び込んで行けない自分がとても歯痒い。
 それに、母も和人さんもあたしたちを真っ向から反対している風でもない。
 何気にあたし次第、と背中を押されているのだから。
 正直、あたしもこのままじゃいけないって、思っている。
 だから、少しくらいなら平気かな?
 ちょっとくらい、がんばってみようかなって思ったり……。
「ん〜と、……ちょっとだけなら、ね」
「ちょっと?」
 翔の横顔がぴくりと反応する。
 でも、腕を退かしただけで、それ以上動こうとしない。
 意外に疑り深い。
 じゃあ、あたしから行っちゃおうか。
 足に反動をつけて柔らかなベッドから起き上がる。
「は?」
 不審そうにあたしを見上げる翔にかぶさっていった。
 優しい瞳も。
 柔らかな癖のない髪も。
 あたしの心を狂わす匂いも。
 あたたかで大きな胸も。
 抱きしめられる長い腕も。
 あたしに触れる、しなやかな指先も。
 柔らかで吸いつくような唇も。
 …………好き、好き、好き、と。繰り返しながら、好きなところに唇を重ねる。
 翔のようにテクニックもないキスは幼く拙いだろう。
 事実、翔はくすぐったそうに身動ぎして、ときどき耐えるような顔になる。
 触れるだけのキスを何度もするうちに、あたしの身体は逆に翔に組み伏せられていた。
 キスもだんだん深くなっていく。
 舌を飲み込まれ、口の中でもみくちゃにされ。
 苦しくて、……でも、うんと甘くて。
 息をする暇も与えられない激しい行為に、すでにあたしは溺れてしまっている。
 息継ぎを与えられた時。
 麻痺してしまったあたしの頭は、とんでもないことを口から滑らせた。
「いいよ? あたしを食べちゃっても?」
 どうして疑問形になったのか、どの口がそう言っちゃったんだか、うまく働かないのは脳のせい。
 はしたないぞ、あたし。
 ゆっくりと視線が交わる。
「いいんだな?」
 あ。
 その顔。
 目を細めて、口角をくっとあげて笑う翔に、あたしは弱い。
 こくん、と。簡単に頷かされていた。
 あたしを見つめる瞳が、とくべつ優しいものに変わっていく。
「……優」
 翔があたしを求めている。
 震える指先に腕に力を込めて、大きくて広い背中に手をまわした。
 肌の質感とあたたかさを確かめる。
 触れ合うことがこんなに気持ちいいなんて、知らなかった。
 頭のなかが痺れる。
 首筋をしっとり濡れた舌が這って、柔らかな唇で吸い上げられる。そのたびに、むず痒い皮膚感がつきまとう。
 あたしの素肌に直接触れる翔の手のひらが、身体の芯を火照らせる。
 火照った身体の芯から熱が広がり、潤っていく。
 探るように動く手が、もどかしく、あたしをおかしくする。
 腿の内側に触れられた時、身震いが起きた。
 開かれた足を閉じることも忘れ、痙攣を起こしたように震えが続く。
 怖いっ。
 この先、どうなっちゃうの?
 自分の身体のことなのに、わからない。
 知らなさすぎて怖いの。どうなってしまうのか、わからないから。
 お願い。止めて、と。声にならない叫びがあたしの頭の中でざわざわと騒ぎだす。
 でも、翔だからだいじょうぶだって、思いたい。
「すぐ、戻る」
 そう言って、あたしから離れて行った翔は戻ってくると、手の中のもの、それが何かを見せ、あたしの手のひらに乗せた。
 まるで許しを請うように。
 お互いの視線をどんなに絡み合わせても、あたしには答えなんか出せなかった。
 翔の瞳は熱く、どこまでも深く、あたしを掴んで放さない。
 もう考えるのは止めてしまおうか。
 あたしの本能が、欲しい、と言っているから。
 唇が渇いてうまく言葉が出せなくて、深く頷いて答えるしかなかった。
 翔はあたしから視線を逸らさないまま、手のひらにあった四角いパッケージを噛み切った。
 これから先を見せつけるように。
「もう、止まれないから」
 覚悟して、と力強く言われ、心臓が飛び跳ねた。
 鼓動が身体全体に広がって、うるさいぐらいに聞こえる。
 あぁ、……やだ。
 翔の熱を感じる。
 あたしの腿の内側に触れさせているのは、わざとなの?
 意識しないではいられない。
 羞恥と快感。
 そのふたつがない交ぜになって、どうにかなりそう。
 無理に進めようとしない、触れるか触れないかの緩慢な動きは、時に焦れったい。あたしの渇きを知っていてそうしているんだ。
 余裕、だな。
 翔はこの行為に慣れている。
 この直感はたぶん当たってる。悔しいけど。
 余裕をみせる翔になのか、過去の行為になのか、わかりたくない気持ちと沸々と湧き上がる不安。
 嫌だ。まだ、知りたくない。
 まだ、このままの自分でいたい。
 どこかで変化を拒んでいるあたしがいて、心の底でみっともなく足掻いている。
 それなのに、心とは反対にどんどん翔にはまっていってしまうんだ。
 そう、甘美に耽っていく。
 もうその欲望にあたしは逆らえない。
「優。力を抜いて」
 翔はそういうけど、あたしは力なんて入れていない。
 首を振る。
「優。ぼくを見るんだ」
 あたしを見透かすように命じる声。
「ゆっくり、息を吐いて」
 言われるまま、ふー、と息を吐き出した。
 くるしっ……。
 頭の奥にちりりと痛みが弾ける。
 吸うことも忘れて、いきなり吐き出してしまったから。
「優……ぼくを拒まないで」
 掠れた低い声が、頭に直接入り込む。
 拒むつもりなんか、ないよ。
 汗が吹き出してくる。
 道のないところを抉じ開けようとする強い力。抗いようのない力があたしを襲う。
 これが痛いという感覚なのか、あたしにはわからない。
 熱くて、苦しくて、堪らない。
 熱さが早く通り過ぎればいい。
 苦しさから早く逃げ出したい。
「まだ、だよ。優、目を開けて」
 翔が諭すように、あたしの頬を撫ぜる。
 やだ。身体がいうことを利かないの。
 いやいやをする。
「優、落ちついて。ゆっくりでいいから息を吸って……吐いて」
 懇願される声。
 許して欲しいと触れる手があたしに優しく伝えてくる。
 ほんとうは翔だって、余裕なんかないのかもしれない。
「ちがうって。息を詰めるな」
 わかってるってば。
 息を吸う、吐く。そんな考えなくてもできることが、むずかしい。
 今度こそ、空気を吸う。
 薄く目を開けてみる。
 その先に、翔の顔が滲んで見えた。
 ゆっくりと、ゆっくりと息を吐き出した。
 不意に身体を持っていかれそうな衝撃を受け、あたしは叫び声にならない声を上げた。
 背骨にまで届く力があたしを追い込む。
 逃げ場がなくなって、唇を噛みしめる。
「優、……頼むから、力を抜いて」
「も、無理」
 もう、いっぱい、いっぱい。
「あとすこし……もうちょっとだから」
 翔の舌があたしの唇をしっとりと撫でる。
 あたしの唇を舐めとる翔の艶然と猛々しい男の顔が映った。
 綺麗、と思って見蕩れる。
 柔らかに微笑むと触れるだけのキスをして、あたしを見つめる。
 それをゆったりと繰り返す。
 まるで、足踏みをしているよう。そう思ったら、ふっーと息が漏れ出た。
 身体が自然と緩む。
 瞬間。
 隙を突くように、熱いモノが埋め込まれた。
 感じたことのない、深いところへ。
 あまりの苦しさに、どうしていいのか、わからなくなる。
「優、……だいじょうぶ?」
 気遣う声が耳元で聞こえた。
 唇をそっと吸われ、まぶたを上げる。
 翔から細い息が吐き出された。
 あたしの上で息を整えている翔を見たら、だいじょうぶじゃない、とは言えなかった。
「痛む?」
 ささやくような甘い声で。
 それを訊かれても、と思う。
 ううん、とだけ、あたしは首を振る。
 痛みよりも、あまりの苦しさで、動けないでいる。
 色気なんてあったもんじゃない。正直、お手あげ状態だったりする。
「……翔は? 苦しく、ない?」
 こうしていても、詰めている息はあがり、じわじわと熱は増していく。
 翔はかすかに笑って、あたしの頬を吸い上げた。
「狭くてキツいけど、ぼくが苦しいわけじゃない。辛いのは優だろ?」
 翔は言葉とは反対に耐えるように眉を寄せた。
 苦しい。熱い。動けない。
 けれど。
「平気」
 息を継ぐために、吐き出す。
「ちっとも、平気そうじゃない」
 また、頬を吸い上げられた。
「平気、だってば」
 そうは言っても、顔いっぱいに力が入っている。どうしようもないくらい、強張っている。
「強がるな。ほら、止まらない」
 ああ。そっか。
 繕いようもないか。
 濡れた感触に、頬を伝うものに触れてみる。
 この涙は、うれし涙。
 あたしはそう思っている。
 ふと触れてみたくなって、翔とあたしが繋がっている部分に手を伸ばす。
 怖いもの見たさ?
 そろっと触れてみた。
「っ……ゆ、う?」
 翔からため息がこぼれた。
 触れてみても、わからない。
 自分の手を、指先を、顔に近づけて見た。
 赤いものが付いていた。これが、初めてのしるし。
 破瓜の痛み。
 気づいたら、あたしは声を上げて泣いていた。
 悲しいからじゃない。
 ひとつになれることがこんなに幸せなんて、知らなかった。
 翔の心配そうな顔が滲んで見えた。
 あたしの顔に張り付いた長い髪の毛を払った翔は、頬の辺に唇を這わせた。
 もう、汗と涙で、あたしはぐちゃぐちゃだ。
 「ごめん」と。翔の声が耳に入ってきた。
 首を振る。伝えたくて。
「ちがう。あたし、うれしいの。……だから」
 これ以上、言葉にはならなかった。
 あたしの額を撫ぜる翔の手が優しい。
「愛してる。優」
 翔の吐息が熱い。
「……あ」
 あたしも、という言葉は翔の唇に飲み込まれてしまった。
 揺すられ、掻きまわされ、うねりを繰り返す。
 苦しい。
 なのに、幸せは果てない。
 甘い痛みに、あたしは溶けていった。


「優、来たわよ。何よ。動けないって?」
 あたしは恥を忍んで母を呼んだ。
 救急車を呼ぶ呼ばないで翔と揉め、あたしのぜったいに嫌、という気持ちを汲んでもらい、泣く泣く来てもらった理由。
 初めてのコトを終えたあと、動けなくなったのだ。ふたりとも。
 あたしは言いようのない痛みに、起き上がれず。
 翔の方は貧血を起こして、ベッドに沈んだ。
「まぁ、優ちゃんったら。律にごはんを作るように言われて来てみれば、これはいったいどういうことなのぉ?」
 ああぁ……、力が抜ける〜。
 小町さんまで来てるし――。
 ……最悪。
 お母さん、ひとりで来てって頼んだのに!
 和人さんには内緒よ、って言ったら、ふつう誰も連れて来ないでしょ?
 信じらんない。
 あたしは動かない自分の身体を呪った。
 こんな初めてって、どうなのよ。
「あ〜あ。優ちゃんも大量出血しちゃったのね」
 ああぁぁ、恥ずかしい……。
 腕組みをした母と、汚れたシーツを持った小町さんが、頷き合っている。
 優ちゃんもって、……。
「律もわたしとの時、びっくりするほど出血したのよね〜。あの時は、ふたりとも若かったし無理やりっていうか、夢中でね〜。うふふふふっ……」
 ……やめて、生々しい。
「優甫! どさくさに紛れて何言ってんのよ。そんな昔のことなんか覚えてるわけないでしょ。ふん」
 母は小町さんの頭をぺちんと叩いて顔をそむけている。
 小町さんは頬を染める母を、まぁまぁまぁ、と宥めている。
 なんだかんだ言っても、ふたりは仲の良い幼馴染で親友。
 それでもって、あたしの父と母なんだよね。
 ふ〜ん。
 そっか、母の初めては……小町さん、か。
 って、そんなの、知りたくもないし。もうっ。
「……で、翔くんは、その血に驚いて倒れた訳ね」
 ま、そういうことなんだけど。
「小町さんは? 血を見てもだいじょうぶだったの? 翔みたいに気持ち悪くなったりしなかった?」
「まぁね。わたしは平気だったけど、兄貴は少しの血でも駄目だったわね」
 女性は月のものがあるから免疫があるけど、男性は苦手って人もいるんだって。
 たぶん、翔は血だけで倒れたのではないと思う。二日酔いと寝不足と過労も手伝ってなんだ、と。
 今、隣に翔はいない。
 母が来た後、午前中の仕事を調整しないといけないからって、慌てて出て行った。
 いっしょにいるのは、居た堪れなかったのだろう。
 母と小町さんから容赦なく弄られるんだもの。

「あ〜、よかったぁ! 優ちゃん、おめでとう! お母さんね、いつかいつかって気を揉んでたのよ。翔くんったら、和人さんと違ってイライラさせられるくらい手が遅いし、優はベーベちゃんだし。あの手この手を使って応援してたのに、ふたりが燃え上がるのに二週間もかかっちゃって。……まぁ、いいわ。これで優も女として一人前になれたんだから。ほんとうによかったわぁ〜。これからは、翔くんにいっぱい甘えて、大切にしてもらうのよ。あたしの可愛い、ゆ、う、ちゃん!」
 母は無駄に色気を放出させると、寝込むあたしの両頬にリップノイズを鳴らした。
 あたしは火を吹くほど赤くした頬を膨らませ、母を睨んだ。
「優ちゃんったら、そんなに怒んないの。律もすっごく心配してたんだからぁ〜」
 小町さんはベッドに縫い付けられたあたしの頭を撫ぜ、うれしそうに頷いた。
「ふふふふっ、何はともあれ、おめでたいわ〜。幸せになるのよ。わたしの優ちゃん」
 「さぁて、お赤飯の用意でもしようかしらぁ」と。揉み手をしながら出て行く小町さんを見送った。
 目をつぶれば、母の上機嫌な声と小町さんのハミングが聞こえ、あたしはやれやれ、と小さくため息を吐いた。

 それにしても。
 母と和人さんは、あたしと翔を燃え上がらせようとしていたですって。
 もう、信じらんない!
 そんな応援の仕方って、あるんだろうか。
 あまりのショックで、あたしは熱を出した。
 丸一日、身体の痛みに泣き言を漏らし、知らぬ間にとろとろと眠り、目を開ければ翔との初めてを思い出し、顔を火照らせた。
 その間、甲斐甲斐しくお世話をしてくれたのは翔で、起きられないあたしをとことん甘やかした。
 仕事は和人さんに押し返し、「溜まってた休暇をまとめて取ってやった」と笑い、あたしの身体が戻るまでひと時だって離れなかった。


 大学四年の夏休みもそろそろ終わり。
 お昼過ぎにようやく重い身体を起こし、夕方近くに慌てて買い物に出た。
 つきん、と身体の奥が痛んで、歩む足をすくませる。
 思い出すのは、昨夜のコト。
 顔の火照りを感じて、うろたえる。
 蕩けるような甘い時間。
 翔に翻弄されて自分を失ってしまう怖さ。
 「加減してる」と、いうけれど、慣れるどころか限界を感じていたり。
「らっしゃ〜い! 今日は秋刀魚が安いよ」
 熱い頬に手を当てて見れば、初物の文字。
 目の黒い秋刀魚がつやつやと並んでいる。
 一尾、百六十円。
 ああ、もうそんな季節。
 ちょっと考えてから、
「お兄さん。八尾買うから、オマケして?」
「おうよ。千円ぽっきりでどうだっ!」
 威勢のいい答えに、あたしは笑顔で頷き返した。
 魚屋のお兄さんは、手際よく秋刀魚を包んでくれ、さらに二尾オマケしてくれた。
 太っ腹のお兄さんにお礼を言って歩き出す。
 秋刀魚はバルコニーで焼いて、たっぷりの大根おろしで食べるのがいい。
 それにお酒があって、みんなが集まれば、最高じゃない?
 この夏、いろんなことが目まぐるしく変わって、あたしもすこしは強くなれたんじゃないかな。
 前向きになれた、と思う。
 帰り道。
 電話をしようと足を止めた。
「もしもし、……今、いい? お仕事だいじょうぶ?」
『優。いいよ』
 穏やかな翔の声を聞いて、ゆっくりと歩き出した。
「夕食ね、初物の秋刀魚にしようと思って。……ねぇ、今夜は四人で食べようよ」
 あれほどうるさく通ってきた母たちは、あの初めての事件以来ぴたりと来なくなった。応援はほんとうだったみたい。
 今朝ベッドの中で、「ぜんぜん来ないから寂しいね」って、翔と話したばかりだ。
 だから多くを語らなくても、きっとわかってくれる、と思った。
『ああ。いいね。親父にはぼくから連絡しておくよ』
「うん。……ねぇ」
『ん?』
「……早く帰ってきてね」
『……』
 不自然な間の後、くっくっくっ、と笑う声が聞こえてきた。
 なによ、笑うなんて。意味わかんない。
『優、それ、いいね。……くっくっ、……みたいじゃない?』
 え、なんて言った?
 ひそめた翔の声は、ちゃんと届かなくて。
 聞き返そうか、と耳を澄ませば、あたしを揺さぶるに十分な言葉が告げられた。
 しばらく放心して、あたしは耐えられないほどの恥ずかしさに包まれた。
「翔のえっち! 馬鹿〜!!」
 すれ違った頭の薄いサラリーマン風の男の人が、飛び退るようにあたしを見ていた。
 あちゃ〜、ここは外なのに、おっきな声で叫んじゃったよ。
 気の毒に男の人は、まわりに視線を泳がしている。
 いつの間に着いたのか、目の前はあたしたちの住むマンション。
 向こうからは自転車。野球帽をかぶった部活帰りの学生がひとり。
 見ていた人も聞いていた人もほかにはいなかったみたい。
 なんにも悪くはないのに、男の人は焦っている。
 あたしは手の中の携帯を指差して、
「ごめんなさい。こっちのことですから」
 居たたまれない気持ちで頭を下げた。
 男の人は渋い顔で二度三度振り返って、歩いて行った。
 あ〜、知り合いがいなくて、ほんとよかった。
 携帯を耳に当ててみると、すでに通話は切れていて。
 もう、焦ったんだからね、と携帯を睨みつけ、ふたつに折りたたむ。
 翔があんな変なことを言ったから、慌てちゃったじゃないの。
<優、今夜は新婚さんごっこでもしようか>
 ちょっと掠れた甘みを含んだ声音で。
 ああ。恥ずかしい。
 あたしは身悶えたあと、上を向いて深呼吸した。
 澄み切った空の中に、薄っすらとウロコ雲。
 火照った熱い頬を撫ぜる風にちょっぴり秋の匂いがした。じりじりとした暑い夏が足早に過ぎて行こうとしている。
 さぁ、早く帰ろう。
 あたしは浮き立つ気持ちを顔にのせ、マンションへと足を踏み入れた。

(完)
(2009/11/06)


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