Let's be together forever
とあるマンションの一室。
テーブルの上では歩の携帯が点滅している。夫、
いつものメール。判を押したような文面。どうせ帰りが遅い知らせだ。
結婚して三年。
同じ家に一緒にいる時間は少ない。
会話もなく、食事も別々。深夜に帰り、早朝には出て行く。
すれ違いの毎日に歩は不満を募らせていた。
同じく、一樹も歩を可愛く思っていないことに身を持って知っている。もう長いこと体の触れ合いはない。
離婚は決定的で反論の余地はない。
歩は憚る人のいない空間で、大きなため息を吐いた。
「ごめんね」
呟くような謝罪は、ひとりきりの部屋に霧散していった。
歩は短大を卒業後、商社ミツモトコーポレーションで営業のサポートに就いている。
営業のサポートとは書類作りと雑用が主で、外回り中心の営業を文字通り支える仕事だ。
歩は153センチと小柄で全体的に丸みを帯びた体型。標準にギリギリ入っているものの万年ダイエットを意識している。
悲しいことに「美しい」と、言われたことは生まれてこのかた一度もない。都合のいいように解釈すれば「愛嬌のある顔」程度だ。
それだから、格好のいい一樹にすこしでもつり合うようにお洒落にも気を遣い、化粧はぱっちりと大きな目に見えるよう研究はかかせなかった。
性格はやや消極的なものの生真面目。複雑で難しい仕事も投げ出さずミスもほとんどしない。尚且つ丁寧な仕事ぶりに営業の面々は歩のことを高く評価していた。
歩は入社して約二年後に一樹と入籍。
歩と一樹は同じ会社の営業課内で働いているので、歩は旧姓の「川北」を便宜上名乗っていた。
結婚の事実も家族を除いては知られていない。
戸籍にバツがついたところで、生活はなにも変わらない。そう思っていたのは歩だけなのかもしれない。
社長に呼び出され「出向」を言い渡された。とは言え歩の希望だ。
地方への出向は内示のみにしてもらうことにし、職場から突然消えることを詫びた。
昔から社長の温かな眼差しは変わらない。
それだけに歩は打ちひしがれ何も考えられなくなる。機械的に足を動かし社長室を出ると、青白い顔でエレベーターを下った。
営業課フロアーに戻ると昨日まで夫だった一樹が、歩の方に向かってきていた。
「川北さん。ちょっといい?」
もう「あーちゃん」と名前を呼ばれることもない。
温もりを分け合うこともない。
それなのに、突き放さないのはなぜ?
柔らかく甘い声に聞こえるのはなぜ?
頭の中で様々な考えが通り過ぎていく。
歩の意識はそこでぷつりと途絶えた。
歩が目を覚ましたのは医務室で、傍らに目を瞑った一樹がいた。
簡易イスに座り、船を漕いでいる。寝ていても整った顔はそのままだ。
歩は自分の体調のせいで倒れたのだろう。そして、一樹によって運ばれたのだろう、と思い静かに息を吐いた。
寝不足と疲労が溜まっているのは感じていた。でも労わろうとはどうしても思えなかった。自棄になった自分も許せないでいた。
「イチ。ごめんね」
歩の手を握る掌の大きさと温かさに心が疼いた。
歩と一樹はふたつ違いの幼なじみ。
ふたりは「あーちゃん」「いっくん」で呼び合う仲だった。
歩はひとりっ子だったので、一樹を兄のように慕っていた。
一樹は長男で、妹の
ミツモトコーポレーションの創業者一族で生活に困らない財産と将来は約束されていた。
一方、歩の父はミツモトコーポレーションの運転手で、母は光本家の家政婦。
歩の家は光本家の敷地内にあって、ひとりっ子というよりも四人きょうだいのように育てられた。
幼い頃の歩は女の子らしい遊びよりも外で駆け回る方が好きで、同い年の二葉よりも、一樹の後ろを追いかけ、よく一緒に遊んでいた。
ただし、立場の上下関係については弁えるよう両親から教えられたため、出しゃばらず常に控えめな人間に成長した。
『大きくなったらいっくんのお嫁さんになる』
歩と一樹の関係は、炎が赤々と燃え上がるような恋愛とは程遠かったし、幼い頃の延長だったせいか、恋に落ちた瞬間も覚えてはいない。
一樹とは家族に近い愛情関係だった、と歩は思っている。
幼い頃の夢は結婚することで現実となったが、時とともに色褪せ泡と消えていった。
歩は一樹から完全にフェードアウトするために動いた。
実家との連絡を絶ち、地方で新生活を始めた。
そして、翌年の春にひっそりと元気な男の子を出産した。
一樹にそっくりな端整な顔立ちに、歩はときどき「いっくん」と呼び間違えそうになる。
ふたりきりの暮らしは概ね平穏だった。
ある日、突然歩のアパートに勤務時間中の二葉が訪ねてきた。
顔色を変えた二葉を見て、嫌な予感がした。
第一声が「どうしよう」興奮した様子で歩にすがりついてきた。
「イチ兄が歩ちゃんの居場所を突き止めたかもしれない」
心配な知らせだった。
「どうやら、父が歩を出向させたことを掴んだみたいなの。出向先を調べるのは簡単だし、社内名簿を閲覧したら一発でバレルと思うわ」
二葉は頭を掻き毟って「あー、もう!」と唸っている。
「二葉ちゃん。……いろいろ迷惑かけて、ごめんね」
すやすやと眠る我が子を腕に抱きしめながら歩は謝った。
出向先の会社は二葉の職場でもある。離婚後早いうちに打ち明けていたので、仕事のペースを始め、産後のケアや子供が熱を出した時にも駆けつけてくれて、ほんとうにお世話になっていた。
歩の気持ちもよくわかってくれて、一樹とは板ばさみになっているのに、歩に寄り添って黙ってくれていた。
二葉だけではない。出張を理由に社長も訪ねてきては、孫にデレデレだ。
歩はすこし考えた後、観念して息を吐いた。
「そっか。もう逃げられないんだね。イチと真剣に向き合わなくっちゃならないんだね」
とうとう来てしまったか。
「歩ちゃんを蔑ろにしたくせに! 許せないよ。イチ兄の馬鹿は!」
二葉はほっぺたを膨らませて怒っている。
「二葉ちゃん。ありがとう。ごめんね」
二葉は、たった数分のやり取りだけで会社に戻っていった。
二葉が来た次の日には、歩の居所を突き止めた一樹はその足で歩のアパートに乗り込んできた。
チェーンをかけたまま、ちらっとだけ視線を合わせたが、歩は気まずくて直ぐに逸らした。
一樹はすこしだけ頬がこけたように見えた。
「歩」と名前を呼んだ後、声を詰まらせながら歩の名前を何度も叫んだ。
古いアパートなので声が響き渡ってしまう。不審者として通報されかねない。放ってはおけなくて歩は扉を開けた。
やっぱり線が細くなっていた。
以前とはちがう纏う空気に不穏なものを感じ、咄嗟に後ろにさがったが、捕らわれてしまった。
体の大きな一樹に勢いよく縋りつかれては身動きもできない。
きつく抱きしめられた歩は大人しくされるままうな垂れ、抑えもせず大泣きする一樹に言葉もでなかった。
最初は驚いていた歩も、仕舞いには一緒になって涙を零した。
歩の知っている一樹は気取っていて何にも動じない、どこか人を食った顔をしていたのに。
今の一樹はボロボロで悲痛な顔を隠しもしない。
こんなになるなら、もう少し話し合えばよかった、と思うほど。
お昼寝から目を覚ました子供が目をぱちくりさせて、一樹の足元に這って来ていた。
一樹は小さな手にぺたぺたと触れられて、歩の体からようやく離れた。一樹の視線が下りていき「赤ん坊?」と呟き、ぐずぐずと洟をすすった。
「うん。
「アツキ……」
一樹は篤樹の顔をじっと見て徐に、
「なんか、親父に似てない?」
「社長?」
「うん」
「どうしてそう思うの? イチにそっくりでしょ」
「俺? ……」
黙る歩。じれったそうな一樹。
「俺の子だ、ってはっきり言えよ! なぁ、そうだって、言ってくれよ!」
一樹は歩の両肩をイラついた様子で揺さぶった。
歩の逃走は一樹の父が一枚噛んでいた。
何かの意図があると疑いを向けるのも無理はない。
「そうだよ。イチと私の子供だよ。文句ある?」
目を据えて真一文字の口、鼻から呼吸する様は、昔からよく見てきた姿だった。緊張した時のむっつりした表情は一樹らしい。
歩は可笑しくなって吹き出した。息も止まりそうなほど笑い、思い出すほどに情けなくなって涙を流した。
「黙って産んでごめんね。篤樹は俺の子じゃない、って言われるのが怖かったの」
「どうして? こんなに俺にそっくりなのに? 誰が見たって光本家の顔だろ」
「……」
「なんだよ。そのふて腐れた顔は」
歩は両方のほっぺを一樹に引っぱられていた。
「だって。ずうっとセックスしてなかったもん。妊娠するとかありえないし」
歩は出産するまで疑心暗鬼だった、とは死んでも言えなかった。
「は? その根拠は? ほとんど毎日してたけど?」
「え。……ええええ?」
歩は驚きのまま声を荒げた。
深夜、一樹に高められ揺さぶられていたことに、歩はまったく気づいていなかった。
「おまえって、一度寝たら何しても起きないもんな」
歩の口は「う」の形で詰まる。
たしかに歩は、地震があろうと近所で火事が起ころうとまったく起きた例はない。人生のうちでたった一度も。
「でも、それって、同意してないよね?」
「ま。そう言われりゃそうだけど。おまえ、愛撫には素直に応えてたし、びしょぬれだったから無理やりではないと思う」
「もう。知らない!」
と、歩は真っ赤な顔をして一樹の胸を叩いた。
冷え切って会話のなかった歩と一樹は、昔を一気に取り戻したようにぽんぽんと言葉を返し合った。
「あー。ぶー。ぶー」
カーペーットの上で篤樹が声を上げていた。口元にはよだれが光っている。
「あ。腹が減ったのか? ん? パパでちゅよ」
一樹が顔を近づけると、篤樹が答えるように無邪気に微笑んだ。
にっこにっこの満面の笑み。
その笑顔を蕩けそうな目で見た一樹は、歩に言い放った。
「それから、離婚届は出してないからな!」
端整な顔立ちを存分に発揮して捕食者らしい笑みを向けた。
歩はその顔の底知れなさに顔色を青白くさせた。
その後、歩は篤樹と東京に戻り、一樹と暮らすことに。
一樹は歩に逃げられないように仕事のスタイルを変えたらしい。
「ただいま」
「おかえりなさい」
ほかほかのごはんがならぶ幸せ。
それらを囲む家族の笑顔。
すべてが愛おしい。 これからもずっと一緒。
Let's be together forever (完)
(2014/11/21) イラストもずねこ様