いついつまでも
ベッドの中。
そこへ、忍び込む足音。窓ガラスの開閉音のみで、深夜の静寂は続く。
ベッドに滑り込んだ馴染みある存在は、藍をやさしく抱きしめて眠りに落ちた。
「もう。また勝手に入ってる。いい加減、自宅の鍵ぐらい持ちなさいよね。財布とスマホはぜったいに忘れないくせに」
「うー。もうちょっと寝かせて……」
布団の膨らみからくぐもった声が情けなく聞こえて、藍は「もう」と眉を寄せた。
我が物顔でベッドを占領するのは、藍の家の裏に住む同い歳の
今年三十路を迎えるというのに、いつまでも変わらないふたりの距離に戸惑いも少々どころではない。
洋佑の見合い話を又聞きする度に、内心は穏やかではない気持ちにさせられる。
とは、言っても藍はとっくの昔に自分の将来を決めていた。
今さらどうしようもないことを、ぐだぐだ考えても始まらないのだから。
「わたし、もう行くからね」
いっしょにいるのを拒むように、藍は仏壇の鈴を二度鳴らしてから外に出た。
ダウンコートを着込み、マフラーを顔半分まで覆い体を丸めて歩いた。
自販機で温かいココアを買って、手を温めながら自宅前の公園まで戻りブランコに腰を下ろした。
団地の小さな公園で、ブランコのほかにはジャングルジムしかない。ベンチくらいあってもいい、と藍は思う。
早朝ということもあり遊ぶ子どもはいない。
この時間も、人のいない風景も、藍は好きだった。
マフラーを顎下まで下げると冷え切った寒気に晒されて吐息が白く煙った。
ココア缶のプルタブを開け、ひと口含むと口内に温かさと甘さが広がった。
藍が大学一年の秋に子宮に病気が見つかった。
全摘出した。苦しい治療を乗り越え、大学は一年遅れて卒業した。
再発を恐れる気持ちは術後五年経った頃には消えつつあったが、女性として完全ではない、と次第に強く自覚するようになっていった。
とくに、結婚や出産の話を聞く度に、「おめでとう」の言葉を重ねる度に、鬱積した感情は自分の中でどんどん大きくなっていった。
今年で術後十年。検査で異常は見つからなかった。
藍は冬の朝の澄んだ空を見上げ、今は亡き両親と祖父母を想う。
両親は藍の幼い頃に事故で、祖父母は藍の病気の完治を見届けると相次いで亡くなった。
寂しいと思うことが、涙を流すことが、負の感情が、だんだんなくなっていけばいい。独りでいることにも慣れていきたい。
「わたしは、元気にやってるよ。……もう大丈夫だから」
そう藍は呟いた。
藍は近所のスーパーで働いている。お給料は食べるに困らないくらいにはあり、職場の人たちとも仲良くしている。
ほどほどの幸せを感じられている。
藍はずっとこのままでありたい。多くを望みはしないから。
そう思っていた。
公園で時間を潰し、勤務先のスーパーまでは自転車で五分。
いつものように早く着いたので、従業員控え室の掃除を手早くしてしまう。
控え室の掃除は当番制になっているが、パートさんによっては時間に余裕のない人もいる。藍は当番表に掃除済のサインを書き込んだ。自分の名前ではなく
掃除道具を片付けると、制服に着替えてネームホルダーを首に掛けた。姿見でおかしなところがないか顔、頭髪、背中、最後には向き直り全身チェックをした。やや細すぎる体だけを見ると貧相かもしれないが、丸顔に笑窪が藍を明るく見せていた。
『いつも笑っていなさい。藍は笑窪がチャームポイントなんだから』
優しかったおばあちゃんの口癖だった。
藍は扉を開けるとお辞儀をして売り場に入った。
藍の持ち場はサービスカウンターで、ときどきレジの応援にも入っている。
開店前のざわめき。それぞれの持ち場で準備は大詰めだ。
藍もギフトを包む手を忙しく動かした。
キュッキュと床を踏み締める音がして顔を上げる。主任の鈴木だ。
「主任。おはようございます」
鈴木はサービスカウンターの向こう側で柔和な顔を向けてきた。
四十代手前の子煩悩な二児のお父さんで、若干恰幅が良過ぎるように思う。
「北見さん。おはよう。今日もよろしく〜」
藍はいつもと変わらない主任の挨拶に顔を綻ばせた後、手元に視線を戻した。
包装紙を指先でつまみ上げ、菓子箱を滑らせ包んでいく。スピードと美しさが要求される作業は集中力が欠かせない。
単純な作業のように見えて、これがなかなか難しい。
熟練と言われるには、まだまだ遠いな、と藍は思っている。
今日はこのギフトを五十個仕上げなければならない。
ときどきこのような大口注文が入ることがある。昨日の内に印刷しておいた熨斗をテープで貼り付け、慎重に包装していった。
ギフトは開店時間までには十個は作ってしまいたい。
開店間近になってポケットの携帯電話が震えた。
メールが着信した。
藍はそっと周りを窺ってから携帯電話を取り出した。
『うまかった』
洋佑のメールはいつも要点のみ。短くてひらがなを多用する。
ヤツは用意しておいた朝ごはんを今し方食べたのだろう。
洋佑はフリーランスのエンジニアで月の半分ほどは在宅勤務で時間に縛られない。遅い朝が羨ましい。
藍は含み笑いの後、携帯電話をポケットにしまった。
いつも通り仕事中はメールを返さない。きっと忙しい、と思ってくれているだろう。
藍は業務を淡々とこなし、午前中かかってギフトを仕上げた。
「一番いってきます」
藍はいっしょに組んでいるパートさんに断わってからお昼休憩に入った。
従業員控え室には、藍のほかに三人休憩をとっているだけで、おしゃべり好きな惣菜デリカのパートさん三人組がいなくて静かだった。
藍は手製のお弁当を広げ、掌を合わせた。
「そうだ。北見さん、ここの掃除してくれたんですよね。ありがとうございます。いつもすみません」
パートの内海が朝の掃除の礼を言う。
「いえ。お子さんの具合どうですか?」
こどもの具合が悪くて、昨日は早退していた。
「あ。そうでした。昨日は早く上がらせてもらって助かりました。おかげさまでこどもの熱も下がりました。今朝なんか元気すぎて家の中走り回ってパパに叱られちゃったくらい」
内海は「やんちゃでしょうがないんです。うちの子」と苦笑しながら肩を竦めた。
「お熱、下がってよかったですね」
微笑ましいエピソードに藍の口元にはうっすらと笑みがのる。
こどもは男の子だそう。内海のロッカー扉には愛息の写真がマグネットで留められている。やんちゃ、わんぱく、と言うけれど利発そうに写っているこどもの顔を見ると仕事もがんばれるのだろう。
藍は、お弁当のたまご焼きを口に含み咀嚼していった。
食後にコーヒーでも飲もうか、とマグカップを取り上げた途端。
ビートルズの『HELP!』の館内音楽が流れた。
この音楽は売り場応援に来い、という合図である。
「わたし、先に行ってます」
藍はマグカップを戻して、売り場に入っていった。
今日はとにかく忙しかった。
藍はお風呂に入った後、リビングに座り込みホットワインをちびちびやっていた。
お昼のピーク前にお弁当が売り切れてしまった。売り場には工場で作られたお弁当と店内加工のお弁当の半々を扱っているので、売り切れになれば店内加工のお弁当を増産するしかない。パートさんから「てんやわんやだったわ」と、聞かされた。
それでお昼休憩に惣菜デリカのパートさんがいなかったのか、と藍は思い至った。
マグカップを揺すり、口に付けるとツンとしたアルコールと、ほのかな甘い香りがした。
チーズをかじると空腹もまぎれ、もう夕ごはんはいらないか、という気になってくる。本当はきちんと食事を摂らないといけないことくらいわかっている。
わかってはいるけど、面倒なんだもん。
今日は疲れたから、歯を磨いてこのまま寝ちゃおうかな……。
「うっす!」
突然の声にもかかわらず、藍は驚かないばかりか、声の主を睨みつけた。
「洋佑。いい加減にチャイムを鳴らして玄関から入ってきなさいよ」
「んでだよ。玄関は鍵がかかってんじゃん」
「もう」
バカバカしいけど、毎回同じやりとりだ。
「……」
洋佑が何か言いたそうに立っていた。
「洋佑?」
「メシ、食った?」
「……」
「どうせ食ってないんだろ」
洋佑の持つトレーには、洋佑の母親の手作り惣菜がのせられていた。「ほら」と、見せられたお皿にはチキン南蛮と根菜の煮物が彩りよく盛られている。
「いつもありがとう。おばさんにお礼言っといてね」
「ああ。冷めないうちに食おうぜ」
「え。洋佑は食べたんじゃないの? その格好、お風呂に入ったんでしょ?」
パジャマの上にダウンジャケットを羽織っただけの格好。冬場はお風呂に入ってから来るのは稀だった。外は寒い。一瞬で湯冷めして風邪をひいてしまいそうだ。
「うん。風呂は入ってきた。……けど、俺もまだだから」
洋佑はやや気まずい様子で赤らんだ顔を隠すようにダイニングにトレーを運んでいった。
「お。白メシ! 俺の分も炊いてあるじゃん」
洋佑は勝手知ったる家と食器棚から茶碗をふたつ出し、ごはんをよそっている。
藍は温かいお茶を淹れて、テーブルに並べた。
藍の横に洋佑が座る。こうして隣り合って食べることは珍しいことではない。
洋佑の家は共働きなので、昔からしょっちゅう藍の家でいっしょに食べていた。
おじいちゃん、おばあちゃん、藍、洋佑の座るイスがあり、決められた訳ではないが、昔から座る場所は変わっていない。
ふたりだけの今、向かい合わせて座る方がテーブルを広く使えるが、お互いに言い出すことはなかった。
「ね。聞いてもいい?」
藍は訊く。
「うん」
「洋佑。お見合いしたんだって? 先週だっけ、お隣のおばさんに聞いたんだけど、どうだったの?」
「ぶふっ――」
洋佑はかき込んだごはんを吹き出しかけた。不機嫌そうに口いっぱいにして止まっている。
「……ああ。あのお見合いな。どうしても断われなくって、会っただけだ!」
「そう」
「なんだよ。興味なさそうに」
「もう三十路なんだから、いい加減結婚したら? 洋佑はモテるんだし、何もお見合いじゃなくてもいい、とわたしは思うのよ」
洋佑は藍が思っている以上にマメであるし、口の悪さは照れの裏返しだし。背は180センチ近くあって高いし、そこそこガッチリして病気知らずだし、顔も良い。高校生の頃は、街角でスカウトされたこともある。今も変わらず格好いいのだから。
「そういうおまえも、俺と同い歳だってこと忘れてねーか?」
「わたしは、洋佑とは違うもん」
「違わねーよ」
「結婚はいいものらしいよ。職場でもこどもの話を聞くんだけど、みんな幸せそうな顔してるもん。洋佑のこどもなら、きっと可愛いんだろうなー」
藍はそう言うと夢見心地で想像を重ねた。
「俺は藍じゃなきゃ、結婚はしない」
「またそれを言うの? わたしは結婚しない、っていつも言ってる」
結婚の先にある欲を人は捨てられるのだろうか?
こどもが持てる可能性があるなら、迷わないはずだ。
洋佑は不満げにチキン南蛮にかぶりついている。
「べつにいいよ。結婚してくれなくても。俺は今のままでいいから」
「それはダメだよ。洋佑は萩家の大切な跡取りだよ。結婚してこどもを作らないと」
「……こどものいない夫婦もいる」
「……」
「ふん。藍は頑固すぎなんだよ」
「頑固って言われてもいいもん。洋佑は早く結婚相手を見つけておじさんとおばさんを安心させてあげて、孫を抱かせてあげなよ。ね」
藍は畳みかけた。
「やめろよ。勝手に決め付けんな! 俺は藍がずっと好きなんだ! 好きでもないヤツと結婚するなんて考えられねー。藍が結婚したくないなら、それでもいい。いっしょにいてくれるだけで俺はいい!」
藍は洋佑から次々にぶつけられた言葉を受け止め、痛そうに顔を歪めた。
「洋佑の言いたいことは、わかってるつもりだよ」
「わかってんなら、もう言うなよ」
「うん」
「ほら。おかずが冷めるだろ。早く食おうぜ」
「うん」
藍は今日も洋佑をやり込めなかった。悄然としておかずを噛みしめた。
どうしたらいいのだろうか。このままでいいわけがない。
「なあ。俺にもホットワイン作ってよ」
「うん。わたしももう一杯飲もうかな」
藍は気分を変えるためにも、と思い立ち上がった。キッチンの洗い物カゴに伏せてあった琺瑯の小鍋に赤ワインをたっぷり注ぎ、ハチミツは少なめ、シナモンをひと振りして火にかけた。ふつり、と沸騰してしまう手前で出来上がり。
いつも使っているおそろいのマグカップに注ぎ入れた。「これ。俺好き! 体があったまるー」
「寒い時は、これだよね」
ホットワインはふたりの冬の定番だ。
おかわりの一杯では済まず、手を伸ばした。
洋佑が隣で体の力を抜いてリラックスしていくのがわかる。
藍はこみ上げてくる喉と鼻の熱さに戸惑い、息を止めた。
どうしよう。今、すごくすごく幸せだ――。
隣を見ると洋佑も、幸せそうな顔で藍を見つめていた。
頬っぺの窪みを指で突かれて、揶揄するしぐさ。
藍は堪らなくなって、マグカップを握り締めた。
涙が頬をぽろぽろと伝っていく。もう止められそうにない。
藍の顔は泣き笑いに変わっていった。
「っとに、これだけで酔っ払うなんて。しょうがないヤツだな。ほら。立って! 歯みがきしてエッチして寝ようぜ!」
手を引かれて洗面所に連れて行かれた藍は、洋佑に歯磨きをされた。「大っきなこどもでちゅねー」とされるまま。
藍はベッドまで横抱きで運ばれ、洋佑の大きな体に足まですっぽりと包まれてしまう。
いつからだろう。抱きしめられる心地良さに慣れたのは。
「藍。愛してる」
真綿に大切に包まれたみたいに甘やかされて。
洋佑の吐息を首筋に感じた。
「藍。離れていくなよ」
洋佑の熱を含んだ声音に、藍は強ばりを解いていった。
素直でいられる今なら。
「うん。傍にいるよ」
いついつまでも (完)
(2014/12/2) イラストもずねこ様