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 1. 「ぼくの可愛い人」

 頬をぽっと染め、テーブルに肘をついて、こちらを見ている君。
 小さい口をあんぐりと空け、右手に持った箸が止まっている。
 視線を合わせて、笑ってみせた。
 食べたいのは、君なんだよ。
 手を伸ばせば驚いて、椅子ごとひっくり返るかもしれないね。

 ぼくの可愛い人。

 ぼくと君の、ふたりで囲むテーブル。
 豚のしょうが焼きにキャベツの千切りとポテトサラダが付け合わされ、プチトマトがいろどりよく添えられたお皿。玉ねぎとわかめのみそ汁のお椀。
 それに、つやつやのごはん。
 湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが幸せな雰囲気を演出してくれている。
 ふ、とこんな風に食卓を囲むようになったのは、なにがきっかけだったっけ? と。頭ん中をのそりと動かした。
 ああ、と。かんたんに思い出す。
 四月、ぼくは某電気メーカーに入社し、このマンションに引っ越してきたところから始まった。
 ぼくの住む部屋は会社が借り上げたもので、五階から十階までの部屋には同僚や上司、その家族が住んでいる。
 新入社員のぼくは、五階の独身者専用のワンルームに暮らしている。
 働き出して間もなく、九階の部屋の直属の上司に可愛がられ、夕食に呼ばれたのが、可愛い人との出会いだった。
 仲良くなるのに時間はかからなかった。気が合うっていうか、すぐに意気投合した。
 そのうちに、上司に呼ばれなくても勝手に上がり込んだりして。
 上司からは、五階の部屋は必要ないんじゃないか、って冷やかされるようになる。
 入り浸りのぼくの目当ては、夕食なんかじゃなく、もちろん上司の娘さん会いたさだった。
 可愛い人は、都立高校に通う、山田みどりちゃん、十七歳。
 今どきの女子高生らしくない、というか、ギャルっぽくない、奥ゆかしさを感じさせる一歩引いたように見えるタイプで、いつも赤く頬を染めている。そんな人だ。
 ぼくよりも五つ年下にもかかわらず、とてもしっかりしていて頼りになる。
 毎朝モーニングコールしてくれて、毎日のようにかいがいしく夕食を作ってくれる。
 すぐにでも触れたいほど、近い存在になっている。
 そう考えながら、箸を動かす。
 髪の毛が黒くなるよ、と言われ小さい時からよく食べてきた、ひじきをぐっと口に押し込んだ。
 つづけて、白いごはんを頬張る。
 夢中で咀しゃくすると、自分の喉仏がごくりと大きく動くのがわかった。
 みどりちゃんは、まだ、ぼくのことを見ている。
「青木さんって、よく食べますよね」
 そっけない態度で。
 ぼくは、めげずに笑顔を作ったりして、
「みどりちゃんの作ってくれる、このひじきの煮物が好きなんだ」
「へ〜、こんなもの、好きなんですか。青木さんって変わってる」
 ほんとうは正直言って、このひじきは、いただけない。
 マズい。激マズである。
 が、マズいとは冗談でも言えない。
「いやぁ、ぼく、おばあちゃん子だったから、煮物に目がないんだ」
「へ〜。ま、いっぱいあるから、どうぞ」
 ひじきの大鉢が、つい、と押し付けられた。
 山盛りの黒々したものを睨みつけ、威嚇してみる。
「青木さん? で、今日のメインのしょうが焼き、こっちはどうですか?」
 ああ。しょうが焼き、ね。
 そうだな、やたら脂が滴っていて、どうにもこうにも堪らないっていうか……。
 箸を置きたい誘惑をかき消し、しょうが焼きに手を伸ばす。
 う〜ん。よし!
 恐れずに、口に収める。
 味は……しょうゆ臭さに生姜が負けてないのがすごい、かも。
 で、口の中がしょっぱ辛さと生姜のえぐ味がぶつかり合い? 激しくケンカしてる。おまけに口ん中は脂ギッシュときた。
 ごはんのひと口、ふた口では済まない。
 でも、この表現も、口にはすまい。
 お茶をすぐさま含みたいのを我慢して口を開く。
「う〜ん。美味い! いやぁ、ごはんがすごく進むよ」
 思ってもみない言葉がぺらぺらと出てきて、自分でもびっくりする。
「あ。そう。よかった。……じゃあ、残さず食べてくださいね」
 う。
 げっぷ、じゃなく、飲み込んだものまで出てきそうなキツイひと言に、ぼくは慌てて口を塞いだ。
 今、マジで危なかったから。
 これらを残さずに食べろ、だって?
 その可愛いお口が言ったのか?
 ん? ぼくを殺す気かってんだよ。
 この娘、どうしてやろう?
 テーブルの向こう側にちょこんと座る、みどりちゃんに視線を当てる。
 ちょっと考え込む顔で、小さな口が動き出した。
「遅いね。お父さん。今日も遅いのかな?」
 また、心配している。
 みどりちゃんは心配性だ。
 今は口にしなくなったらしいけど、突然、出て行ってしまったお母さんをずっと待っている。
 家族を失くしたトラウマが消えない。
 だからいつもお父さんの帰りを待っているのだ。
「うん。部長は残業だって」
 みどりちゃんのお父さん。そしてぼくの上司は、みどりちゃんお手製の夕食から逃げるために、ぼくを利用したのだろう。
 最初の内だけは、夕食を招いた責任からいっしょに食べる振りをしてたけど、いつからか、この団欒という場所から姿を消していた。
 このクソ不味い料理を食べたくなくて、ね。
 今頃、銀座にある小料理屋『小町』にでも行って、旨い酒でも飲んで、旨い料理にでも舌鼓を打っているのだろう。
 目の前の料理を、どうしてやろうかって? こっちが教えてほしいよ。
 ぼくはこっそりとため息を落とした。
 きっと、食べていれば慣れる。
 この味に慣れて、美味いと感じられる時が、きっと来るはずだ。
「やだ。いくら美味しいからって、涙目になるなんて、青木さんってカワイイですね」
 い、いや、それほどでも。ほんとうにぼくは泣きそうなんだけどさ。
 その可愛い微笑みがなかったら、ぼくはここにはいないよ。
 頬をぽっと染め、テーブルに両肘ついて、小さなくりくりの目を瞬かせている君がいなかったら、ね。


(2009/11/15)

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