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 5. 「夜のデート」

 みどりちゃんと、『ジョギング』という名前の『夜の散歩』を始めてから、二週間が経とうとしていた。
 雨の日以外は、毎日続いている。
 初日は一キロも走ると、みどりちゃんは、ひ〜ふ〜言ってすぐに根を上げた。
 翌朝のモーニングコールで起きて行けば、
「ごめんなさい。まだ、朝ごはん、できてないの」
 と、みどりちゃんは頬を赤らめてひっそり笑った。
 全身の筋肉痛で今朝はすぐには起きられなかったらしい。
 玄関からキッチンまでの廊下を一歩一歩足を引きずる後ろ姿は、とても現役の高校生には見えなかった。
 だから、その日はぼくがみどりちゃんの代わりに朝ごはんを用意した。
 トースターでパンを焼いて。グラスにオレンジジュースを入れて。
 作る、というほどのことでもないけど。
 焼いている間に、みどりちゃんの足を揉んだりしていて、みごとにパンは丸焦げになってしまったけど。黒こげになった食パンを、包丁の背で削り落としながら、ふたりで頬ばった。
「歯に黒こげがついちゃって、可笑しい」
 そう言って、みどりちゃんはのけ反って笑った。
 どこが笑いのツボかわからないけど、みどりちゃんは涙を流しながら笑った。
 洗面所からやってきた部長がみどりちゃんを見て眉を顰めた。
「頼むから、泣かさないでくれよ」
 と、ぼくに釘を刺すような真剣な顔で懇願されたけど、みどりちゃんを泣かせたかったわけじゃない。
 まったくの誤解です、と言おうと目を合わせたら、部長の目にも涙が溜まっていた。
「あ〜あ。娘なんて持つもんじゃねーなー」
 と、部長はふて腐れた顔で呟いた。そして、黒こげのパンを横目に見て、出勤するには早い時間に出て行った。
 部長のシルエットは全体的に元気がなかった。
 玄関のドアが閉まってからしばらくはテレビの音だけがBGMで、もそもそと苦味のある食パンと格闘していると、
「お父さん。お母さんがいなくなってさみしいのかも」
 みどりちゃんは、そう言ってからパンの耳をお皿に戻した。
 ぼくは何と答えていいものか、すぐに言葉が浮かばなかった。それに、みどりちゃんは、それ以上話題にするつもりもないようで、あえて聞き出すことはせず食パンを噛み砕くことに専念し、口直しにオレンジジュースを流し込んだ。
 部長を見送りに行った、あかちゃが玄関から戻ってくると、みどりちゃんの足に擦り寄った。
「なー」
 あかちゃのごはんの催促の声を聞いて、みどりちゃんは部長が食べるはずだったパンとお皿に残したパンの耳を小さくちぎってあかちゃの皿に入れた。
「な゙〜」
 焦げたものなんか食わせんなよ、とあかちゃの不満の声が聞こえてくるようだった。
 あかちゃにごパンをあげようと、屈み込んだみどりちゃんは、
「痛たたぁ〜」 
 と、足を擦って唸った。
「最初っから、飛ばしすぎちゃったかな。今夜は休もう。しばらくはウォーキングにしようか」
 辛いからやめたい、と断られる前にハードルを下げる提案をした。
 みどりちゃんは、あからさまにホッとした表情で頷いた。
 もしかして運動は極端に苦手だったりして。ちょっと揺さぶって確かめてみようか。
「で、ウォーキングに慣れたら、徐々にスピードを上げてけば、ジョギングになる」
「……」
 みどりちゃんはそれには答えず、もう一枚ある黒こげの食パンを憎らしい敵のように睨んだ。
「いや。いや。最初のうちは散歩するくらいのペースで、ね。こういうのは続けることに意義がある」
「はい。がんばります」
 今度の返事は気持ちよかった。
 わかりやすい。

 みどりちゃんは、相変わらず可愛い。
 
 だから。
 一週間たっても二週間たっても、スピードは上げずにぼくの頭の中だけで『夜の散歩』を『夜のデート』と勝手に変換して楽しんでいた。
 懐中電灯を片手に、夜を歩く。
 みどりちゃんの顔が見えないところが残念だけど、代わりにぼくのにやけた顔も見られない。
 手を繋ぐこともできなくてお子様なデートだけど、それでもなかなかシャイなみどりちゃんにはちょうどよく、ぼくとの距離がとりやすいようだ。
 心はぼくにゆっくりと近づいてきている。……気がする。
 今日もデートコースの中間地点にある公園に入って休憩をとった。
 ぼくたちは小さな灯りに照らされたベンチに座って、しばしおしゃべりタイムといこうか。
 さて、どんな話題にしよう。
 みどりちゃんは、両足をぴょこんと伸ばしてからぱたりと地面に落とした。
 心地いい風がぼくらの頬を撫ぜる。
 いいね〜。ふたりの雰囲気は。
 どう? 他人から見たら、相思相愛に見えない?
 みどりちゃんの肩を寄せてみようか。と、不埒なことを考えていたら。
「わたしのせいなの」
 ぽつんと呟いたみどりちゃんの言葉に出しかけていた手を引っ込めた。
 みどりちゃんの横顔は、なぜだか、泣きだしそうな予感がした。
 涙を零すまいと、小さな灯りを一点に見つめているような気がした。
「ん? なにかあったの?」
 ぼくはやさしく聞いてみた。
「あのね。お母さんがいなくなったのは、わたしのせいなの」
 と、みどりちゃんは、予想外の告白をした。
 ずっと前のことだけど、と断わってからみどりちゃんは話し出した。
「お母さんと知らない男の人が、家にいたの」
「……」
 いつのことだかぜんぜんわからないけど、たぶんここから先はいい話じゃない。ぼくが聞いてもいいのか。いや、拙いんじゃないか。迷っているうちにみどりちゃんは言葉を続けた。
「わたし、見ちゃったんだよね。お腹が痛くて学校を早退した日。家に鍵がかかってたから、お母さんはてっきり買い物にでも行ったのか、と思って開けて入ったら、奥の部屋からアダルトビデオの声がしたの」
「アダルトビデオ?」
 うん、とみどりちゃんは頷いて、ぼくの方を見た。
 ほぉ。みどりちゃんは、アダルトビデオを見たことがあるのか。う〜ん。ちょっとショックだな。
「エッチの時の声。わかるよね?」
 みどりちゃんの目は、青木さんにはそれが何だかわかるでしょ、と語っている。
 アダルトビデオ特有の女の明け透けな喘ぎ声を想像した。
「あ〜。まぁ。……うん」
 返答に困って、とりあえず相づちを打つ。
 みどりちゃんもそれに頷き、靴で地面にハートのマークを書いて、息をひとつ吐き出した。
「それで、もしかしてお父さんが帰ってて、お母さんとエッチしてるのかな? って思ったの」
 そうか。お父さんとお母さんのエッチな行為を思春期の娘は慌てるでもなく冷静に受け止めたんだ。
「うん」
 また、相づちを打つ。
「そこで、知らん顔して家を出て行けばよかったんだけど、お腹がすんごく痛かったからこっそり自分の部屋で横になってようって思ったの」
 ぼくは、もしかして、もしかして、と胸がドキドキと騒ぎ始め、喉の渇きに唾をゴクリと飲み込んだ。
「でね、部屋に入ったら、わたしのベッドに、お母さんと知らない男の人がいて」
「……」
 オーマイゴッド! ああ。なんてこった。
「ふたりとも裸だったんだよね」
 みどりちゃんの部屋で、鉢合わせ。しかもお母さんの相手がお父さんじゃなかった。……なんてさ。
 相づちも忘れて、みどりちゃんの方を穴の開くほど見つめた。
「ふたりとも抱き合ったまま、わたしを見てた」
 テレビの某局の昼メロみたいな展開だった、と。もはや衝撃すぎて言葉もでない。
「もう、もうね。びっくりしちゃって。……わたしのベッドなのに、どうしてお母さんがいるの、って思って」
 そっち? うん。まぁ。みどりちゃんのベッドでエッチするなんて、えらく度胸のあるお母さんだよな、と思うけど。
 あ。ちがうか。お母さんは、夫婦の寝室で不貞を働く気持ちにはなれなかったから、か。
「ほんとにびっくりして、お腹が痛いのも忘れて、家を飛び出しちゃった」
 みどりちゃんは、また、ふ〜と深いため息を吐いた。
「夜になっちゃって、どこも行くところなんてないし、しょうがなく家に帰ったら、お母さん、いなくなってた」
 ぼくはなんて言っていいのか、わからなかった。
「きっと、あの男の人とかけおちしちゃったんだ」
 不倫の末のかけおち?
「……部長は、なんて?」
 みどりちゃんは、ちらっとだけぼくの方を見て所在なげに、
「知らない」
 と、首を横に振った。
「お父さんには言えなかった。だって、たぶん、お母さんのこと、愛してるし。まさか、お母さんがあんなことするなんて、思わないだろうし。……言えなかった」
 泣きそうな声で、ひと言ひと言吐き出す様は、とても辛そうに見えた。
「言えなくて、辛かったね」
 みどりちゃんは、ひとりで苦しんでいたのだから。
 今まで、小さな胸にしまっていたんだ。
 両手で顔を覆って俯いているみどりちゃんを、ぼくは抱きしめた。
 みどりちゃんは、ぼくの胸に顔を埋めると、子どものように声を上げて泣きだした。
 ひとりで抱え込んで、苦しかったんだね。
 悲しかったし、寂しかったね。
「お母さん、……いなくなったのは、……わたしのせい」
 しゃくりあげながらも懸命に話そうとする。
「ちがうよ。みどりちゃんのせいじゃない」
「ううん。わたしがあんなとこ、見ちゃったから。……知らなかったら、お母さんは、今も、きっと、お父さんと一緒にいた。……そう思うもん」
 ちがうよ。それは、みどりちゃんの想像でしかないよ。
 とは、言えなかった。
 いつかは壊れていたかもしれないよ。
 とも、言えなかった。
 だから、胸の中で泣くみどりちゃんが愛しくて、精一杯慰めよう。
 みどりちゃんが、もういい、って言うまで頭を撫で続けよう。
 地面に描かれたハートマークも、寂しそうに見えた。

(2013/4/24)
つづく

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