top

 第二章 1.     by 栞

 地震のような揺れと耳慣れない音を体に感じ、頭を動かした。
 ぼんやりしてよく見えなかった。
 暗くて変な感じがする。
 ときどき自分の顔に明かりが通り過ぎる。
 明かりは照らされているというより、顔の上を光りが走っていく。
 奇妙な感じがする。
 ここはどこだろう。
 よくわからない。
 なんとなく窮屈で足が固い壁のようなものに遮られ、曲げるしかない状態だ。
 ここはとても狭い空間なんだと思った。
 状況ははっきりしないけど、たぶん自分は今の今まで眠っていた。
 それは確かだった。
 私は夢を見ていた。
 それは、いつも見る夢だった。
 けど、いつものとはちょっと違っていた。

 ふわふわと浮いていた私の身体が地面に着き、質問してくる女の人の顔が朧げだけど見えた気がした。
 どこかで会ったことがあるような、私の記憶の底に眠っているような、そんな気がしてならない。
 そして、いつもの夢には続きがあった。
 光りの奥にはトンネルがあって、その穏やかな光りは私に向けて照らされていた。
 道しるべ。
 そう思ったんだ。
 そして、その光りに私は吸い寄せられるように歩いた。
 嫌な夢じゃなかった。
 追い詰められた感じがしなかったし、変な汗も掻かなかったのが、その証拠。
 この揺れと音を除いては、とても気分がいい。そう思えた。


「目、覚めた?」
 その声に体が強ばり胸が震えた。ほぼ真上から聞こえたから。
 誰?
 男とは違う。男よりも声は低いけど艶があって柔らかい感じがする。
 私は今、一人じゃないと悟った途端、覗き込むようにした顔を見つけた。
 黄色の光りが通って、顔が少しだけ見えたのだ。
 ふたつの瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。 不安そうな色をしている。
 自覚したからか、また胸が震えた。
 間近すぎる顔に驚きが過ぎ、体が強張った。
 頭の下に感じるのは、人の膝だったから。
 その顔は暗い中、じっと私を見つめていた。
 そう意識したら、体が才覚しようと急激に熱くなるのを感じた。
 そうだ。思い出した。
 男の帰りを待っていたのに、玄関に立っていたのは男じゃなかった。
 この人だった。この人がいたんだ。
 それで、そのうちに気持ちが悪くなって……。
 それから、……どうしたんだろう?
 ぜんぜん思い出せない。
 でも、今は見たことないところにいる。……そうだよね。

「なあ。俺のこと覚えてる? 俺の名前覚えてる?」
「……」
  いきなり名前を聞かれてもそんなの覚えていない。
「大学病院の医師で杜原 匠。たくみ先生って呼ばれてる」
「もりはら たくみ」
 私は復唱した。
「しゃべれるんだな」
 しゃべれる、って? ずいぶん失礼なことを言う人だな。
 それより、私は……。
 何か大切なことを忘れている?
 ……。
 ―― そうだ! 男が事故にあったんだ。
 病院にいる、って、この人が教えてくれたんだ。
 不安が頭をよぎった。
 今、どうしているだろう?
 どきどきと胸が鳴って考えられなくなる。
 高鳴りを抑えようと、胸に手を押し当てた。
 嫌だ。どうしよう?
 不安で押し潰されそう。
 息をするのも辛い。
 ハッとした。
 手に触れるものを感じて。
 手だ。これは……この人の手。
 私の手を、なだめるような動きで握りしめている。
「今、病院に向かってるから。田崎さんのところに行こうな」
 不安な気持ちが伝わっているのだろうか。
 それは酷く心配そうな声音で、諭すような響きをもっていた。
 私は自然と素直に頭を動かした。
 よく表情は見えないけど、悪い人ではないって。
 男のところに連れて行ってくれる人だと思った。
 早く会いたい。
 そればかりを思って気が急いた。
 あとどれくらいかかる?
 早く早く。会いたい!
 数分して、匠の膝の上に乗っている居心地の悪さに顔を曇らせた。
 さっきから断続して聞こえる不快な音と揺れに嫌悪感を募らせていた。
 首を動かし、周囲を探った。
 ここはどこだろう。
 暗いしチカチカと赤や黄色の光りがぶつかって来る。
 恐ろしくなってきた。
 得体のしれない恐怖。
 身体中がぞわぞわしてちっとも落ち着かない気分にさせられる。
 さらに身を縮めた。
 堪らずに聞いた。
「ここはどこ?」
 私は匠の腕にしがみ付いていた。
「ここはタクシーの中。怖いの? 俺がついてるから大丈夫」
 匠は私を包むようにしていた腕に力を込め、握ってくれていたもう片方の手で私の頭を撫ぜた。
 大きな手の平からは温かみが伝わってきて、とても気持ちがいい。
 男と同じ優しい手だ、と思った。
 頭を何度も手が往復する。撫ぜられている間中、匠を見つめ続けた。
 表情は相変わらず見えないけど、ゆっくりで穏やかな息遣いを微かに感じることができる。それだけで、平気な気がしてきた。
 さっきより気持ちが治まってきたから? この音や揺れがなんでもないように思えてきた。

 タクシーって、自動車のことだよね。
 そうか。ここは外の世界。
 マンションのベランダから見える世界は、こんなに近かったんだ。
 あんなに嫌だったのに……外に出て来ちゃったんだ、私。
 この感じ、……初めてのことを勉強する時の気持ちに近い。
 私の苦手なこと。
 未知のことを手探りで開いていく感覚がとてつもなく怖くて逃げたくなる。

 タクシーが停まり、天井の明かりが灯された。
 部屋の明かりほど明るくない、部屋の廊下の電気に近いオレンジ色の明かりだった。
 見えなかった車内がどんなところか分かった途端、強張っていた緊張から開放された。
 天井までの空間が思ったよりもあることに気付き、匠の膝からそろりと身を起こした。
「着きましたよ」
 低いしゃがれた声にギョッとした。
 心臓が躍っている。
 もう一人いたんだ。さっきから驚きの連続で、どきどきの度合いが増している。
 前に座っていた人が、振り向いて私を見つめている。神妙な顔をしているこの人も、私を男のところに運んでくれたのだと思った。
 その人は「大丈夫ですか?」といたわりを込めた顔で、私に言った。
 じっと見つめて黙っていると、匠が横から口を出した。
「ああ。ありがとう」
 匠は私の代わりだ、という顔で返事をした。
 そうか、匠みたいに私もお礼の返事をするべきだったのか。
「ありがとう」
 焦って返事をした。
 前の人は目を細めると、柔らかな笑顔で返してくれた。
「お大事に」
 その言葉を胸の中で噛みしめた。
 じんわりと温かい気持ちが私の心に広がった。

(2008/04/15)




back ← 目次へ → next




top

inserted by FC2 system