top

 第二章 6.     by 匠

 入るよ、と。
 後ろを歩く栞に確認するように声をかけた。
 弱い笑みを辛うじて作る栞を見て、大丈夫だ、と目で合図した。
 固唾を呑む、こくりという音を聞いたのをきっかけに、ノックをして扉を開けた。
「お待たせしました」
 言い終えると同時に、部屋の中の人が応接椅子から立ち上がるのが見えた。
 不安げな栞を背に感じながら、俺は部屋に一歩入ると、手早く挨拶する。
「杜原といいます。川本 栞の担当医です。どうぞよろしくお願いします」
 軽く頭を下げると、すぐに挨拶が返された。
「初めまして。わたしは『聖母マリアの家』の橋本 さなえ、といいます。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
 声の先には、人柄の良さそうな穏やかな笑顔があって。その場をホッとさせる温かさをまとった人だな、と思った。
 その人は笑顔のまま、少しだけ肉付きのいい体を覗き込むように捻った。
 すぐに、
「雪ちゃん……」
 口に手を当てて言うと、そのまま止まってしまった。
 雪ちゃん?
 そのあと、
「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ……」
 両手で口元を覆い、ずれた眼鏡も気にせず、驚きの声を上げた。
「あ、あなた! 雪ちゃんにそっくり! ああ、雪ちゃんだわ。……その白くてお人形さんみたいなところも。……まるで、雪ちゃんを見ているよう……」
 俺の後ろに隠れた栞をまじまじと見て、感慨に耽るようにうなずいた。
 そして、すこし間が空いたあと、
「……そう、あなたが雪ちゃんの……。栞さん、なのね? ああ、会いたかったのよ。早く会いたいってずっと思っていたの。本当に会えてうれしいわ」
 目を細め、喜びの声を漏らした。
 そういえば、雪ちゃん、というのは栞の母親で、たしか…… 雪乃 ゆきの いう名前だったな、と思い出す。
 面談の前に、警察から提出された書面に栞の両親と身元引受人について、簡単に記載されていた。
 その母親を知る人物が目の前の人で、栞の身元引受人という訳か。
 そう考えながら見ていると、急に恥ずかしそうに、
「ふふふっ、わたしったら、駄目ね。いい年して、興奮してしまって……」
 ごめんなさいね、とはにかむ。
 そして、
「わたしのことは、『さなえさん』と呼んでちょうだい」
 と、明るい調子で言った。
 伸びやかな声をしたシスター 橋本 はしもと さなえは、児童擁護施設で園長を務めているの、と話す。
 還暦を迎えたくらいだろうか。小柄な体に、ふっくらとした顔。そこにはきれいな笑いジワが浮かび、小さな丸い形の眼鏡の奥には目尻がやや下がった優しそうな瞳が窺える。いい歳のとり方をしたかわいい女性って感じだろうか。 その瞳は栞を見つめて、笑みの色合いをグッと深めた。
 栞は、と。
 案の定、俺の後ろに隠れるようにぴったりくっ付いている。
 さなえさんを凝視したまま、突っ立ち、瞬きを忘れたように開かれて。声もでない。
 硬い表情は、どうしたらいいのかわからない、といった顔をしている。さらに体中に力が入っているように見える。
 話が始まる前に、これだけ緊張していては……。
 まいったな。
 とりあえず、座らせてみるか。
「栞。ここに座ろうか! さぁ」
 薄い肩をできるだけ労わるように押して、座らせた。
 触れてみて、体が震えていると気づいた。よく見ると、指先もかすかに震えている。
 これはまずいな、と思った。
 無理に話し合いを進めるのは危険だから。
 一度、心を閉ざしてしまったら、それを開けるのは難しい。
 なにか声をかけようかと、一瞬迷う。
 だけど、大丈夫だろうという勘も働く。
 栞は思ったよりも強い意志を持っていると、出会った時からずっと感じていた。
 だから、もう少しだけ様子を見ようと、踏みとどまった。
 さなえさんの方も、栞の緊張を感じ取っているのだろう。
 笑みを絶やさず、
「わたしは、あなたのお父さんとお母さんをよく知っているのよ。ふたりとも十八歳になるまで、いっしょに暮らしたんだもの」
 きっと、たくさんの思い出があるのだろう。そんな顔をしている。
 栞の父と母は、幼少から『聖母マリアの家』で育ったという。
 栞の目は驚いたように開かれ、
「私は、なにも、なにも知らない。だから、父と母のことが知りたい」
 これが栞がここに来てからの最初の言葉だった。
 話すというより呟き出た感じ。ひとりでに口から零れ落ちたように、知りたいという。
 その瞳は真っ直ぐで、真剣そのものだ。
 両親のことを知っているという人物を前に、早く知りたくてしょうがないのだろう。
 さなえさんは、ふふっと小さく笑い声を零してから、
「ええ、そうね。お父さんとお母さんのことは、たくさん話したいことがあるのよ。あとでじっくりお話しましょうね」
 のんびりと穏やかな空気を含んださなえさんの声には、不思議と惹きつけられる。
 見ていて感じる温かい印象は、なにも顔や声だけではないと思う。やわらかな語り口にもあるのだろう、と。
 小さな子供に話しかけるようなゆっくりとした口調は、とても安心させてくれるのだ。
 栞の緊張もだんだんと薄れてくるのでは?
 そんな気さえしてくる。
 それに、さなえさんは硬い表情の栞を見ても、焦らせるような態度を取ることもなく、温かくほぐすような笑みをずっと刻んでいる。
 すべてを包み込むような雰囲気に栞の緊張がほぐれるのも時間の問題だろう。
 こういう人を、気に入らない訳がないと思った。
 さなえさんなら栞を任せられるのではないか。初対面ながら、そう思った。
 そして、いろいろな話をさなえさんの口からゆっくりと聞けばいい。頼りになる相談相手になってくれるだろう。
 十八年、生きてきた栞だけど、この外の世界に出て三週間ほど。まだそんなに時間が経っていない。
 栞自身気になっているだろう身の上についても。けして幸せだったと言えない、亡くなった両親のことも、知りたいだろう。
 ―― 栞の両親、……か。
 警察からの書面を振り返ってみる。
 栞の父親の家族は夜逃げで居所が分かっていないこと。母親の方も、『聖母マリアの家』の玄関前に捨てられていた、とあった。
 栞の両親共に育児放棄された過去をもち、恵まれた環境にはなかったのだ。
 今はまだ、あえて栞に伝えることはしていない。
 田崎さんの死を受け入れるだけでいっぱいの栞に、これ以上の精神的な負担は避けたかった。
 そういう複雑な事情も、いつか受け止められる時が来るだろう。
 きっと、いつか。
 それより当面は、これからのことに目を向けなくてはならないと思う。
 部屋の中だけで過ごしてきた栞にとって、外は未知の世界。まずは世の中の仕組みを理解しなければならない。
 知らないことや、初めての体験も数多いことだろう。
 その場その場で、すぐに溶け込むことができるだろうか。
 少なくとも、対人関係を築くことは容易ではないだろう。
 想像することはできないが、受け入れがたい問題も生じるだろうし、想定できない場面にも出くわすだろう。
 その中で、嫌でもやっていかなければならないのだ。
 少しでも早く外の生活に慣れることが栞にとって望ましく、大事なのではないか。
 俺はそう思うんだ。
 栞を守り、助けられる人が多いほど、心強いってものだ。
 きっと、さなえさんはその中のひとりとなり、必ず栞の味方になってくれる人物だと、この時思った。

(2008/09/30)


back ← 目次へ → next




top

inserted by FC2 system