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 終章 1.     by 栞

 テーブルの上のお鍋の蓋を取ると白い湯気が一気に立ち上る。
 鶏水炊きの後の雑炊があとひと煮立ちで出来上がる。玉子がトロトロに煮える頃合い。刻んでおいたあさつきを取り、入れるタイミングを今か今かと窺がっていた。
 ふつふつと湧き上がる音がした。玉子が半熟の内にあさつきを投入すると色鮮やかな緑色が映えて、よりいっそう美味しそうに見える。私はその出来栄えに満足して匠の方に笑みを向けた。
 ところが、視線がかみ合わない。もう朝からずっとこんな調子だ。頬がぷっと膨らんでしまう。
 私の隣にどっかりと腰を下ろした匠は、不満顔を隠そうともしないで、深雪のことを真っすぐに睨んでいた。
 夜勤明けで疲れているのだろうか。昼寝が足らなかったのだろうか。三人でお鍋をつついているというのに、うれしく思ってもらえないのはちょっと悲しい。沈み込んだ気持ちで、玉子雑炊をとんすいにとりわけていった。
「この雑炊、最高! 卵のとろけ具合がたまらない!」
 深雪といえば始めから上機嫌で、「美味しい、美味しい」と連呼しては満面の笑みを向けてくれているのに。匠は終始むっつりと黙ったまま。機械的に食事を口に運んでいるだけで、こちらを見ようともしない。反抗的というか、ううん、見てはいるけど私からの視線はわざとらしく避けている。
 ――もう! 子どもみたい。
 私だって知ってる。匠がいろいろと気に入らないって思っていることくらい。
 でも、ほんとうに欲しいのは、匠の笑顔なんだよ。


 振り返ること半日。
「この構図、やけに多くないか?」
 朝。遠慮のない低音の声に起こされて飛び起きて見ると、匠が寝ている深雪の身体を部屋の隅っこに引き摺っているところだった。
「タケル。いくら眠薬なしで眠れるからって、入り浸り過ぎ! ちょっとは遠慮しろよ」
 いまだ眠りの中にいる深雪。聞こえていないことを知りながら、匠の本音そのものを私に聞かせたいのだろう。
 匠が夜勤の時。ひとりになる私を深雪が心配して様子を見に来てくれている。私としては心強いし、作った料理もいっしょに食べてくれる。おかずも余らせずに片付くし、都合がいいと思っているのだけれど。それらを快く思わない匠は、その度に機嫌を悪くする。最近は慣れっこになってきていて、深雪の優しさに甘えてしまっている。
 それに、匠も深雪に「来るな」と面と向かって言わない。どこか心の中で容認しているところがあるのだ。
 ――愛してるのは、匠だけだよ。
 そう伝えてみようか。
 そうしたら匠はどんな顔をするだろう。
 こんな風にいつも匠のことを想ってるんだよって知ったら何か変わるのだろうか。


 大学のキャンパス。大教室は前から後ろに傾斜がついている。
 私は窓際から一つ空けて後ろから二番目の席で頬杖をついてぼんやりと教室を眺めていた。空コマの時間に匠の授業に潜り込むことを覚えてからは、後ろめたさはなくなりつつあった。今はまだ、ぽつりぽつりとしか人は来ていない。出足が鈍いのか、深雪も来ていない。
 隣の席を深雪用に取っておこうとカバンから適当なノートをごそごそ探していると、隣に誰かが座る気配がした。濃厚な香水の匂いに息を詰めて顔を上げる。
「ねえ。ねえ。ここ空いてるよねぇ? 座ってもいいよねぇ?」
 聞く必要があるの? すでに座っているじゃないか。そこを深雪の席にしようと思っていたのに、と落胆の表情をにじませ見やった。
 ぽってりとした厚みのある唇はグロスでつやつやに光っている。お洒落に気を付けているいかにも今時な服装の人に私は若干引き気味で小さく首を傾げて見せた。
「川本さん、だよねぇ」
 甘ったるく舌を引きずった語尾にも戸惑う。名前は知らないけれど、私と同じ看護学科の人だ。
 たしか『合コンざんまい』と呼ばれている。合コンしか興味がありません、と言い切りそうなほど合コン好き。どうせ、また合コンの誘いなのだろう、と頭に過ぎり、隣の顔から視線を膝の上のカバンに落として「うん」と返した。
 品定めをするような視線。なんとも嫌な感じがして席を立ちたい、と思わせる。
 私と同じで、この授業は潜りだろう、その人に耳を澄ませた。
「あのねぇ。前から思ってたんだけどぉ、タケルとはどういう関係なのぉ〜?」
 あれ? 合コンじゃないんだ。珍しい。そう思いながら、ああ。この人もタケルファンなんだ、とどこか納得して隣の人の胸元まで視線を上げた。ボリュームのある女性らしい膨らみにコンプレックスを刺激される。
 どういう関係か? 問われれば、ひとつしかない。
「友だち」
 やや大人げない声音で答えた。
「友だちぃ?」
 本当に? と大袈裟な返し。目の端で見てもびっくり顔でのけぞるのがわかり、それはどうかと思う。指摘はしないけど。
「そう、だけど」
 何が言いたいの? この人。
「今日はひとりなのぉ?」
 深雪とは、はっきりと待ち合わせている訳ではない。
「うん。ひとり」
「え〜。せっかく会えると思ったのにぃ」
 そんなこと言われても、知らない。
「みゆ、……タケルは来てないから」
 深雪のことはみんな通称で呼んでいるから、私も合わせてタケル呼びで答えたけれど、ぜんぜん呼び慣れない。
「そんなの、見たら分かるしぃ。ねぇ、来るの? 来ないのぉ?」
「……知らない」
 首を振った。
「ああ〜。なんかムカつくぅ! 川本さんってば、表情が動かな過ぎ! 笑ってるとこ、見たことないもん。知ってる? 『不機嫌ドール』って呼ばれてるの。何考えてるかわからないから声掛けづらいっての。ちょっとぉ、話してる時くらいこっち向きなさいよ〜!!」
 隣から私の肩を掴んで無理やり向かされるので、さらに体が強張った。
 声掛けづらいとか、ウソでしょう。合コン、合コン、思い切り話し掛けてくるくせに。
 それに、知ってる。『不機嫌ドール』と呼ばれていることを。誰が付けたか知らないけれど。どこかのお寿司屋さんに真似て付けられた『合コンざんまい』の名前と同じくらい良く思われていないってことも。
 それにしても、不機嫌に見えるとか、自分ではぜんぜん気づけないものだ。私は表情が乏しいらしい。笑っているつもりだけど。なんだか残念だ。
 ちょっと沈む気持ちにさせられたけれど、深雪が姿を現さないので、隣の人は大教室から出ていった。
 でも、たぶん、深雪は来ると思う。
 深雪は大学に入学してから仕事をセーブしている。今はCMのみ。そのうち、フェードアウトを狙っているとか。そんな話をしていた。今は医師を目指して勉強しているところだ。深雪のおばあさん、みつ子さんの病気を治したい、と熱く語った姿は忘れられない。
 私も負けてはいられない。
 大学進学を考えた時、どんな学部で学べばいいのか想像ができなかった。極端に狭い世界で生きてきた私に知恵がなかった。結局、身近に感じた職業だった看護師を選択したのは、匠と深雪の存在があったからだ。当面の目標は、まるちゃんみたいな看護師になりたい、かな。
 それに、欲張りだけど、趣味の域で翻訳を地味に続けている。直訳では読み取れないところの言葉選びがとても重要な作業だと思っている。日本語は幾通りもの使い方があり、それはまるでパズルをはめ込むようで、ぴったりくると気持ちがいい。まだまだ奥が深くて勉強中だ。
「栞。おはよ」
 深雪が来た。
「うん。おはよう」
 ギリギリの時間に滑り込めてよかった。
 深雪がリュックから物を出しているのを見てから、教室を見下すとだいたいいつもの顔ぶれが揃っていた。匠の助手が授業のセッティングを終えて出入り口近くの椅子に座るのが見えた。わりと若い男の人で、ほんの時々だけど私と視線が合う。
 匠が入ってきた。白衣に黒いパンツ。見慣れた格好だ。相変わらず無表情というか冷たい雰囲気を纏っているせいで近寄りがたく感じる。イケメンとかブサメンだとか顔の造作のことはよくわからない。
 大学の助・教授の噂話の中には、匠のことも話題に上る。若くて独身で整った顔立ちに高身長ということで人気があるのだから、もう少し柔らかい表情ができないものか、注目して見ていると、教壇に上った匠は、いつものように教室を窓側から廊下側に視線を巡らせた。
 きっと、その間に私を見つけてくれただろう。
 なのに、視線が合わない。
 ――苦しいよ。
 どうして見てくれないの。
 ずっと続いている不安がどうしようもなく私を蝕んでいるなんて、自分ではわからなかった。

(2016/09/16)


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