top

 第一章 4.     by 栞

 男が仕事を終えて部屋に帰って来るのは、今日のように大抵深夜を回る。
 それからいっしょに食事をとるのだ。
『先に食べていて。眠っていてもいいんだよ』
 「我慢するんじゃないよ」と、言うけど。ひとりで食べるのは、とてもさみしい気持ちになるから、食べない。
 いつも男を待っている。
 出張で帰って来れない日は、食べない時もあるくらいだし。
 食事をとらなくても、大してお腹は空いていないと思ってしまう。
 食欲も、男次第なのかもしれない。
 今夜もいっしょに食べようと料理を作った。
 今日も食卓に料理を並べる。
 並べるといっても、そんなに品数はない。
 豚の生姜焼きと、ワカメと玉ねぎのみそ汁が今日のメニュー。
 それと、男にはビールと茹でた枝豆を用意した。
 ざるに上げた枝豆を、最後に置き、食卓を眺めた。
 あっと、びっくりするような料理ではないね。浮き浮きもしないもんね、とひとり息を吐く。
 いつもの変わり映えしない料理を見ても、男は何も言わない。
 冷蔵庫の食材は、すべて男が買ってきて、あるものを使って作る料理は、大体こんな感じだ。
 料理をするようになって五年くらい経つけど、レパートリーがあまり増えないのは食材の幅が少ないからかもしれない。
 言い訳だろうか?
 とくに美味しい、と言ってくれることもなければ、リクエストされることもないのは男にとって食事は大きな意味を持っていないからかもしれない。
 でもね、私、料理の本を眺めるのは好き。
 色彩豊かな美しい料理の載った写真は、何時間見ても飽きないから。
 私は食べ物の栄養についての本を読むのも好きで、その食べ物にどんな栄養素が含まれているとか、そういうことを覚えて物思いに耽る。
 まったく違う食べ物なのに、同じ栄養素が含まれるなんて、本当に不思議だ。
 この豚肉と枝豆はまったく顔もちがうのに、同じ栄養素がある。ふたつともビタミンB1が多い。
 疲労回復に効果があるんだって。
 知ってる?
 男の疲れが少しでも取れるといいな、と思ってるんだけど、どうかな?
 ちらり、と男の顔を見た。
「どうかした?」
 なにか? って顔。
「ううん、なんでもない」
 私は思ったことを言葉にしないで、首だけを振った。
「……そうか」
 薄い笑みを漏らして、男は黙々と食べ進む。
 私も同じように黙々と食べる。
 食事中は、ほとんど会話を交わさない。
 ほかの誰かと比較はできないけど、男はあまり多くを語らない方かもしれない。
 やがて食べ終わると、いっしょに片付けをする。
 洗い物は男がして、私は食べ残した料理にラップをかけたり、テーブルを拭いたり。
 そして最後のお皿拭きは、ふたりでする。
 今日もその大きな手で器用に泡立てたスポンジを滑らせ、丁寧にお皿を洗っていく。
 器用だなって、こっそりと覗き見る。
 そんな男の姿を、隣で見るのも好き。
 今夜も一緒にキッチンに並んで立ち、ぽつりぽつりと話を始めた。
 あまり言葉を多く話さないけど、それでも私と男は何か通じるものがあると思っている。
 稀に、男は私の勉強の進み具合を気にして口にする。
 私はこの部屋から一歩も出ないから、当然、小学校や中学校に行っていない。
 だから、学校の先生に習ったことがない。
 男はそれを気にして、勉強の本や参考書をたくさん買ってくれた。
 小さい時には文字も計算も、付きっ切りで教えてくれた。
 しばらくしてから、英語の書き取りや文法も。
 それから英会話も、ときどき教わる。
 男が英語を話す日は、私も英語で返すようにしていて、そんな日は男の口数が多い。
 だから、英会話の日はいつもよりも多くおしゃべりする。
 楽しくて。私もいつもより言葉が多くなる。
 私の発音は、どうなんだろう?
 男のそれはとても流暢で、優雅に聞こえる。
 すごく綺麗に聞こえる、と私が言うと、
 仕事でいつも使うから、と照れたように話す。
 その一音一音を漏らさぬように、うっとりと聴き入る。
 たぶん、英語とともに、男の声も好きなんだ。
 それと。
 英語というと、私は英語の小説を訳す仕事をしている。
 一日の内、翻訳に費やす時間が一番多い。
 そのほかに数学の勉強の時間も決めて、欠かさず何かしら覚えることにしている。
 一日の成果を話すと、男は私の頭を優しく撫ぜて微笑む。
 褒めてほしくて、私はいつも頑張るのだ。

「栞、明日は十八歳の誕生日だ」
 そう言われて、引き戻された。
 私は最後のお皿を拭いてから、冷蔵庫のカレンダーを見た。
 ああ。明日の朱色印は、私の誕生日だったのか。
 うれしくて、男の背中に手を回し抱きついた。
「そう? 私、十八歳?」
「ああ。そうだ。明日はお祝いをしよう。花とケーキを買ってくるよ。……それから、明日は早く帰るから」
 撫ぜられた頭に、男の手の重みを感じる。
「うん。待ってる。きっとよ」
 そうか、忘れてた。
 誕生日は、忘れた頃にやってくる。
 一年前の誕生日を思い浮かべた。
 ほの暗い部屋の中で、火の灯ったローソクを吹き消した時のことを思い出した。
 なかなか全部消えなかったんだよね、あの時。
 くっきりと目の前に見えて、思わず笑みが込み上げる。
「うれしそうだな」
 私の顔を見ていたらしい男は、私をぎゅっと抱き締めて呟いた。
 私は男の身体から発する匂いを嗅ぐために、大きく息を吸い込んだ。
 シャンプーの香りのなかに、微かに体臭を感じる。いい匂い。
 それを嗅ぐと、とても満たされるから。
 そして、男の鼓動を聞きながら生きていることを実感する。
「だって、明日が楽しみなんだもん」
「ああ、そうだな。……明日な。そろそろ寝よう」
 男はそう言うと、私を大事そうに抱き上げ、寝室に向かった。

 私と男はひとつのベッドに、一緒に眠る。
 私は男の胸に手を回し、ぴったりと寄り添う。
 男は枕を二つ重ね高さと角度を付けると、ベッドサイドの明かりを付けて、分厚いノートに何かを書き込む。
 ほんの数行の時もあれば、一ページびっしりと埋める時もある。
 何て書いてあるのか問いを向けても、
『内緒』
 そう言って、笑って上手にはぐらかした。
 日本語でも、英語でもない、何かの文字がびっしり書かれたノート。
 いったい何が書いてあるのだろう。
 男の眠る前の習慣は、もう何年も続いている。
 私はその間に眠ってしまうこともあるし、書き終わるのをじっと見ていることもある。
 男はそのことに何も触れないが、明かりを消す時に私の顔を見る。
 起きていると、眠れないのか? と言って頭を撫ぜ、私の冷たい足を男の足の間に挟み込むようにして温めてくれる。
 私はその優しさに、すっかりと溺れているのかもしれない。 
 男を感じる時だけ、嫌な夢を見なくて済む。
 だから。
 ずっとそばにいてほしい。
 いつだって、一緒がいい。 
 やがて、うつらうつら、と。温かさに包まれながら眠りに落ちる。

(2008/04/01)


back ← 目次へ → next


top

inserted by FC2 system