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 第二章 3.     by 栞

 扉の向こうに、男がいる。
 会えるんだ。
 そう思ったら、胸がうるさいぐらいに騒ぎ出した。
 どきんどきんと体の中心から発するように。
 心臓がいつもより大きく波打った。
 『関係者以外立ち入り禁止』の文字。
 その張り紙が見えた途端、体からは震えが走った。
 誰もが入れる訳ではない、特別な部屋だというのか。
 不安な気持ちで、まだ見えないその先を見つめた。
 匠は私を抱かえたままの姿勢で扉の開閉ボタンを肘で押すと、扉が音もなく開いた。
 二、三歩進むと置いてあった青色のスリッパの上に私を下ろした。
「大丈夫? 立てる?」
 匠は私が問題なく下り立ったことを確認すると、目だけで頷いた。
 私は初めて体験することで、気持ちに余裕もなく、匠に答えることもできなかった。
 とにかく、いっぱいいっぱいだった。
 首を振り、上下左右と、辺りを見渡した。
 そこは私が外に出て、初めて下り立った場所。
 住まいとは、まったく異質のところに見えた。
 そう改めて実感することもなく、どうすればいいのかさえも分からずに立ちすくんだ。
 そう、私はまるで自分の意思を持たない人形のよう。
 肩をトントンと宥めるように叩かれ、後押しされたのだと感じて、こくりと喉を鳴らした。
 体は石のように固まっていたが、心はただ一心に男へと気持ちが向かっている。
 視線の先には、さらに扉が見えた。
 すぐには会えなかったのだ。
 私は落胆の色を浮かべていたのだろう。
「もうすぐ会える」
 匠は無理に抑えこんだ抑揚のない声で言うと、横にある洗面台で手を洗うように指示をした。
 と同時に、自分も石鹸を使って綺麗に洗って見せた。
 私もそれに倣って洗った。
「これでいい? タオルは?」
 びしょびしょに濡れた両手を匠にかざして見せた。
「ああ、拭かなくてもいい。そのまま手を出していて」
 匠は私の手に、スプレーを数回吹きかけた。
 ぎくりと体が強張った。
 強烈な匂いに。
 あまりに強い匂いに顔をしかめていた。
「この臭い、嫌い」
 病院の臭いの正体が、このスプレーの臭いそのものだったから。
「この扉の先に行くには消毒が必要なんだ。ばい菌を持ち込むわけにはいけないからな。我慢してくれ。こうして手を擦るんだ。真似して」
 匠はさらに抑えたような低い声で言った。
「さぁ。この扉の向こうだ。行こう」
 扉の手前で白色の上着を着せられてから、背中を押された。
 もうひとつの扉が開いた時、私は、あっ、と声を漏らした。
 部屋がとても明るかったから。
 これまでは真夜中という時間もあって、暗いところからやって来たのだ。
 病院の廊下も薄暗い照明だった。
 なのに、ここは光りが溢れていて、壁すらも真っ白で。
 眩さに目を瞬かせた。
 ここは私の心をすくませるのに十分な雰囲気をもった部屋だった。
 それでも注意深く見ていると、かなりの広い部屋に思えた。
 中にはところ狭しとたくさんの機械が置いてある。
 静かで機械から出る規則的な音だけが部屋を支配していた。

「こっちに来て」
 先を歩いていた匠は、小さな声で私を呼んだ。
 私は頷いて匠に続いた。
「田崎さん、連れてきました」
 匠はそう言うと、私に、おいで、と手招きした。
 私は息を飲んで、歩き、その方を見た。
 ベッドに寝かされている人が見えて。
 まじまじと見た。
 頭には包帯がされ目元近くまで覆われている。
 誰であるかの判別もできないほどだ。
 男と分かるものは、ほとんどと言っていいほど隠されていたから。
 半円形のものが口を塞ぐように固定され、腕にも細長いチューブが刺されていた。
 包帯のところどころには血が滲んでいて、痛々しい様子に息を詰めた。
 その姿に胸が痛んだ。
「栞」
 その寝かされている人の声がした。
 口を塞がれて篭って聞こえにくいけど、確かに私の名を呼んだ。
 ああ。……会いたかった。
 男だ。
 会いたかった男だ。
 その声が、耳慣れたもので、やけに心に響いた。
 はっきりとした姿かたちはわからないけど、まさしく男の声だった。
 ただ、それだけで胸に何かが込み上げた。
 男は塞がれたものを外そうと頭を必死に動かしている。
 頭のすぐ横に立っている匠が、
「苦しくなったら教えてください」
 と、言って外した。
 男の顔が見えた。
 途端、気持ちが緩む。
 目頭が熱くなるのが分かった。
「来てくれたんだな。栞」
 愛おしそうに見つめる穏やかな男の瞳に、少しだけ慰められた気がした。
 やっぱり自分は緊張している。
 ようやくここまで来たんだ、と思った。
 男を前にホッとしている自分を自覚し、涙をぐっと堪えた。
 涙で視界が鈍っているせいで男の姿がはっきりしない。
 もっと近くで見たかったから、男の胸元までにじり寄った。
 男は微笑んでいた。
 笑顔が心なしか弱いのは、痛みからだろうか。
 腕につながれたチューブが痛々しく見え、触れていいものか迷った。
「痛いの?」
 でも、私は返答を待たず、恐る恐る男の左手を触った。
 すべすべした弾力のある手触りは、馴染みのあるもので。
 男は少しだけ頷くと、息を吐き出した。
「苦しい?」
 男は何も言わず、逆に私の左手を力強く握り締めた。
なんて言ったらいい?
 胸がいっぱいで、言葉にならない。
 そんな気持ちで男を見つめた。
「栞、すまない。誕生日を祝ってやれないな」
 私は首を横に振った。
 そんなこと、どうでもいい。
 こんな時まで男は優しい。
 いつも自分のことはおいて、私のことを想ってくれる。
「栞。……十八歳のお誕生日、……おめでとう」
 もう言わないで。そう、言いたかった。
 男の声は、掠れ、途切れ途切れだった。
 とても苦しそうで、痛そうに見える。
 それなのに、必死に言葉を紡ぎだそうとしている。
「……もう、いっしょにいてやれない。……私はもう駄目みたいだ。……あの世に逝かなくては……な」
 なんて言ったの?
 どういうこと? 
 どうしてそんなことを言うの?
 私は男なしでは生きていけない。
 そんなこと、分かっているのに。
 男が意地悪で言っていることではないと分かるのに。
 もどかしい気持ちでいっぱいだった。
 見つめるだけしかできなかった。
 男の瞳はとても穏やかで、静かで、無欲に見えた。
 だからこそ、この世の終わりを告げられたのだと思った。
 そう。終わった、と。
 男の顔がぼやけて見えたと思ったら、私の顔に涙と鼻水が伝っていた。
 鼻水をすすり、涙を右手で拭って。
 左手の握られた手を揺すって、必死に願った。
「私もいっしょに連れてって」
 男はくっと笑い、目を細めた。
 言いたいことは分かってる、と言いたそうな目で、私の左手を強く握りながら。
「栞は、可愛いことを言うな。……これからのこと……栞をこの杜原 匠先生に頼んだから。……これからは先生の言うことをよく聞くんだよ」
 苦しげに息を吐き出し。
 さらに匠の方に顔を向け、続けた。
「杜原先生。栞を……よろしく……お願いします」
 隣にいた匠はすぐに反応すると、体を折り曲げ、男にぐっと近寄った。
「分かりました。任せてください」
 何か話し合いをしたのだろうか?
 匠は私の肩を抱き寄せると男に向かってそう言い切った。
 男はそれを見て深く頷き、息を吐いた。
 苦しげな呼吸は意識してようやくしているようにも見える。
「あ……あ、もう思い残すことはない……な……」
 男は呟くように言い、目はどこか遠くを向いていた。
 だけど、思い出したように私の顔を見た。
「……栞、私の名前を呼んでくれないか? ……一度でいい……名前で呼んでほしい」
 名前。
 男の?
 ああ。そうだね。呼んだことがなかった。
 今まで、その必要もなかったから。
 私にはたったひとりの人が、いつも寄り添ってくれていた。
 田崎 雄吾。
 その人だから。
「ゆ、う、ご」
「栞。……ありがとう。うれしいよ。……初めて呼んでくれた、な。……夢のようだ」
 男は、いや雄吾は、ゆっくりと自分で確認するように呟いた。
 これ以上愛しいものはないという目で、私を見つめる。
 雄吾。
 どうして……どうして今まで呼んであげなかったのだろう?
 こんなにも喜んでくれるなら、何度でも呼んだのに。
「雄吾! 帰ろう?」
 ねぇ、帰ろう?
 ふたりで帰ろうよ。
「ああ、……そうしたい。……けど、……もう、できそうもない」
 雄吾が力なく言った。
 その言葉に目を見張った。
 弱音を吐いたことがない雄吾が、そんなことを言うなんて――。
 ことの重大さを噛みしめながらも、どうしても認めたくないと思った。
 今までどんな我がままでも聞いてくれたのに。
 どうして駄目なの?
「雄吾、私の我がままを聞いて! いっしょに帰ろう。ずっといっしょがいいの」
 初めてだった。
 雄吾の苦しげで、悲しそうな、辛い、曇った顔を見るのは。
「……駄目だよ。……聞いてやれない。……無理……なんだ。私は死ぬ」
 決定的な一言だった。
 『死ぬ』なんて……。
 微かに首を振る、その動きさえ辛そうで。
 そんなこと、聞きたくなかった。
 首を横に強く振って、受け入れないと私は頑張った。
 苦しそうに息をする雄吾にすがった。
 嫌 ――。
「……死ぬなんて、死ぬなんて、嫌だよ! そんな寂しいこと言わないでよぉ!」
 どこにも行かないで!
 私をひとりにしないで ――――――。

(2008/06/10)


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