『名前は、とくに、変えたくは、ありません。父と母の子供であることを否定したくはありません。それから、私は匠と暮らしたい。それと、これから、勉強をたくさんしたい。学校に行ってみたいし、翻訳の仕事も続けたい』
俺は栞の言った言葉を反芻していた。
しっかりした意思表示に正直、面食らっていた。
栞は真っ直ぐに落ち着いた様子でさなえさんを見つめ。さなえさんも、驚きの目で見つめている。
だけど、さすが年の功、さなえさんは立ち直るのが早かった。
にっこりと微笑んで、
「あなたは、その年でお仕事をしているのね。お仕事をすることも、学校で勉強することも、とても素晴らしいことだわ。……でもね、初めて外に出て行く時、あなたのところに興味本位だけで近寄ってくる人もいると思うの。わたしは、そんな心無い悪い人からあなたを守りたいのよ」
名前のことも、『聖母マリアの家』で暮らすことも、わかってほしいの、とさなえさんは訴えかける。
栞は何かを考えるようにしてから、俺を見た。
問うような瞳で。
信頼されている、と感じるほど、苦くなっていく。
胸の奥で何かが詰まったように感じるのは、どうしてだろう?
いつだって栞の味方でありたい、と思う俺が、その瞳を見ると、後ろめたい気持ちになるんだ。
さなえさんの言うことに異論はない。栞を思ってのことだ。
むしろ、そうした方がいいとさえ思っている。
「俺もさなえさんと同じように思っているよ。外は良い人間ばかりじゃないからね」
俺の期待はずれの答えに、栞は顔色を変えてしまった。
さなえさんは、とりなすように、
「勉強をしたいのなら、高校に通うのもいいかもしれないわ」
少しでも栞の心が解れるようにと、さなえさんは気づかうような提案をした。
高校?
うーん、と唸る。
ここで遮るのは、はばかれるが、俺なりの意見もある。
「すみません。水をさすようですが、栞は学力的には十分高校を卒業できるレベルにあると思っています。できれば高卒認定を受け、大学受験をしてみてはどうかと考えます」
「まぁ、そうなの? それなら大学の方がいいわね」
さなえさんは柔軟な態度で受け止め。
栞もそれに同意するように頷く。
さなえさんは、丸い眼鏡を直しながら、
「あとの気がかりは、……住まいのことだけど……。ねぇ、わたしのところにはたくさんの子供たちがいるのよ。三才の男の子から十八才の女の子まで総勢十二人。とても賑やかで楽しいところなの。きっと栞さんも気に入ると思うわ」
けして、押し付けがましい言い方ではない。
さなえさんは微笑みを強めて栞を見た。
栞は少し考えるようにしてから、
「私は、たとえ名前を変えたとしても、匠といっしょにいたい。ほかの誰のところにも行きたくない。私はずっとここにいたい!」
感情的な中、多少の妥協を見せたが、住まいに関しては頑なに引き下がろうとしなかった。
そこに。
「ここにいたい、だって? おいおい、ここは病院だぞ。まったく。お前さんは、いい迷惑なんだよ。この先生も病院に勤務しているってだけで、家はちゃんとあるんだから! なぁ、先生も、はっきり言ってやんなきゃ!」
上田警部補は俺に顎をしゃくってみせ、そんなことも分からんのか、と嘲笑した。
俺は怒りを向けるのも馬鹿らしくなって、上田警部補を無視して、栞の手を握りしめた。
特別な事件としてマスコミが大きく騒いでいるし、事件を事故として扱い、風化させたことで、当時の捜査がずさんだったと警察を叩く報道がされている。各局連日の報道合戦でどんどん過熱している状況だ。
そんな中、捜査が行き詰まりを見せている。そう流されては堪らないのだろう。
かなり周りに振り回されているらしいことは、うかがい知ることができる。
必死に捜査しても、良く言われないのでは報われないと拗ねているってところか。
顔色も若干悪いのは寝ていないのか、目の下のクマが黒く縁取りされ、疲れが見て取れる。
それにしても、栞に対して酷くぞんざいな態度には大人気なく、同情なんてできるもんじゃない。
そっちの方こそ、まったく、だよ。言い方ってもんがあんだろ!
だけど、 言い方を変えてでも言わなくてはならない時もある。
俺は栞にできるだけ優しく語りかけた。
「栞?」
「な、に?」
「俺も、いつまでもこの病院で寝泊りができないんだ。栞は、これから大学に行って勉強したいんだろ?」
「……う、ん」
「外で生活するには、ここから出て行く必要がある。だから、さなえさんのところに行くのが一番いいと思うんだ。どうだろう? 栞のお父さんとお母さんも育ったところなんだし、よく考えてみるといい」
俺の言葉は過ぎたのだろうか。
栞は一瞬、裏切られたような悲しそうな表情を浮かべ俯いてしまった。
けっして突き放したつもりはない。
だけど、結果的には俺から離れさせようとしている。
栞は拗ねたように視線を俺と合わせようとしない。
俺だって手放したくは、ない。……けど。
心配で栞の手を、ぐっと握りしめた。
それでも栞は黙り込み、答えようとしない。
沈黙が続く。
心を開こうとしない栞を見かねて、さなえさんは、
「急には難しいわよね。ごめんなさいね。大人って、そういうところがあるの。わたしはね、栞さんの一番いいようにしてあげたいと思っているから、ゆっくりと相談しましょうね」
俺は話しを打ち切ろうとしていることに同意して、頷いた。
「それから、栞さんさえよかったら、先生といっしょに『聖母マリアの家』に遊びにいらっしゃいよ。たくさんの子供たちがあなたを待っているから」
初めに会った時から穏やかな態度を一度も変えないさなえさんに、栞は心を開くまでには至らないまでも、何かしら感じるところはあったようだ。
顔を上げて、さなえさんを見ると、小さく頷いてから俺を見た。
ここに来た最初の時よりも、少しだけいい顔をしている。
俺も表情をゆるめ、頷いてみせた。
面談室での話を終え、病室に戻った。
栞は部屋の扉が閉まるのを待っていたかのように開口一番、
「あの上田って人、嫌いっ!」
ぷりぷり怒っている。
ずいぶん嫌われたもんだな、あの男――。
栞はベッドの端にぽすんと座り込むと、沈んだ顔色で俺を見上げた。
「……匠は、私のことが、迷惑?」
ふいに突かれ、ドキリとした。
泣きそうな、すがりつくような瞳が、俺を見て放さない。
「そんなことはない。迷惑だとは、一度だって思ったことはない」
本当? と訊きたそうな顔の栞に俺は頷いた。
なにも焦らなくていい。ゆっくりでいい。
栞に、というより、むしろ自分に聞かせるように心に刻む。
栞が座るベッドに丸イスを引き寄せ、対面するように腰かける。
ほっとした顔の栞をそっと抱き寄せ、頭を撫ぜる。
身動ぎしないで身を預ける栞を、ゆるゆると、なだめるように手を動かした。
今は、まだだ――。
無理に背中を押すべき時ではない。それはわかっている。
だけど。
心の中で警告音が鳴っていることも、無視はできないんだ。
いっしょにいる時間が長くなるほど、栞を手放すことができなくなりそうで、焦ってもいる。
確かなのは、栞が自分にとって、大切な存在になってきているということだ。
『匠といっしょにいたい ――』
あの時。
栞の気持ちが聞けて、心底うれしかったんだ。
それに、俺の気持ちだっていっしょだ。
大切だよ。ずっとそばにいてほしい――。
本当にそう思うよ。
腕の中にある柔らかな髪を指先で梳き遊び、栞の頭を両手で包み込むように見つめる。
頼りきり、甘えるような瞳。その奥にある、芯の強さと真っ直ぐな心。
それらすべてが愛しいもので。
柔らかに抱きしめ、栞の額にそっと、唇を押し付けていった。
(2008/10/15)