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 第三章 2.     by 栞

 雄吾が死んで間もない頃。
 私は一日泣いていた。
 眠ろうという気も起きない日が続き、いつの間にか意識を飛ばし、また覚めることを繰り返した。
 その間、寝ても覚めても雄吾のことばかり考えて、泣いていた。
 これでもあの頃に比べて、だいぶ泣かなくなってきたのだ、と思う。
 匠がそばにいる間は、泣かないで眠れるようにもなった。
 でも夜、ひとりぼっちになると、ぜんぜん駄目なんだ、私。
 実体のないものがひたひたと押し寄せてきて、私を閉じ込め、苦しめる。
 それが何なのか、説明できないけど。
 この世界でたった独りきりになってしまった気がしてくる。
 とても寂しくて、恐ろしい。
 気がつけば、身体ががたがたと震え出し、落ち着いてはいられない。
 匠に訊くと、それは『孤独』を感じているから、というのだ。
『いっしょにいるから、大丈夫。栞は孤独じゃない。俺も、まるちゃんもいるだろう?』
 魔法の言葉を語りかけるように出される低音の優しい響きに私は包まれる。
 そうすると、あっという間に匠のいう『孤独』からは開放される気がしてくる。
 手を伸ばせば、匠がいる。
 匠は震える私の身体を包み込み、手を繋いでいてくれる。
 その間、安心して眠っていられる。
 匠がいない夜でも、ベッドの枕元にあるボタンを押せば、看護師が来てくれる。
 思えば、雄吾がいてくれた時よりも、今、私はたくさんのひとに囲まれているんだ。
 匠がいて、まるちゃんがいて。
 ほかにも、この病院で働く医師や看護師たち。
 それに、私のことを気にかけてくれる、さなえさんもいる。
 私を取り巻く人は、雄吾ひとりから、たくさんの人へと変化した。
 だから『孤独』を感じる必要はないのだ。
 匠といる時は心の中に匠をいっぱいに感じるし、同じく、まるちゃんの時もある。
 そのたくさんの人の中でも、私にとって匠が一番で、いつだっていっしょにいてほしい存在なんだ、と気がついた。
 それがいいことなのか悪いことなのか考えた時、はたと行き詰った。
 雄吾が死んで、雄吾でいっぱいだった私の心が、突然ぽっかりと空いてしまった。あの時から、その空いた隙間を、私は必死になって匠で埋め合わせようとしている。
 そんなことは、本当はいけないんじゃないかって、そんな気持ちになってくる。
 それはすごく自分勝手なことに思えて、許せなくなるんだ。
 必死に、雄吾から匠にすり替えようとしていることが、おかしく思えてならない。
 それを匠に話すと、それはぜんぜんおかしいことじゃない、と言う。
 私にも分かるように、やさしく教えてくれた。
『たくさんの人と会って、たくさんの人と触れ合う内に、心の中をたくさんの人で占めていくんだよ』
 雄吾しか知らなかった、雄吾でいっぱいの私の心が、いろいろな人で埋まっていくのだという。
 ふ〜ん、そういうことか。おかしいことじゃないんだね。
 ……でも。
 それが理解できると、また、別の不安が襲ってくる。
 いろいろな人が埋まっていくと、雄吾の占める分がどんどん小さくなってしまうんじゃないか? って。
 塗り替えるように、忘れてしまうのじゃないかって。
 そんなの嫌――。
 雄吾が小さくなって、忘れてしまうなんて絶対、嫌――。
 だから、もう誰にも会わない、って言ったら、匠は寂しそうな顔で、私を痛いくらいに抱きしめた。
 そのとき、耳元で諭すように紡がれた言葉がある。
『大事なことは、そう簡単に忘れるものじゃない。何年経っても思い出せるように人間はできているのだから』
 ほんとう?
 匠の言うことは、本当なの?
 そうであれば、聞こえるはずだ。雄吾の声が……。
 耳を澄まし、目をつぶってみる。
『私がいない間も、いい子にしているんだよ。栞、さぁ、笑って言ってごらん? いってらっしゃい、って』
 雄吾だ。
 これは、私の小さい時の朝の出勤風景。
 私は少しの別れも寂しくて、泣きそうになるのを堪えて、雄吾を見送っていた。
 なかなか笑って『いってらっしゃい』が言えなくて、雄吾を困らせた。
『……じゃあ、仕事に行って来るよ』
 後ろ髪を引かれただろう、雄吾の声が聞こえる。
 軽く手を振った雄吾に、私は息をつめて応えた。
『いってらっしゃい』
 いつの頃からだろう、笑顔で言えるようになったのは……。
 寂しさを隠しながら、いつも雄吾を見送っていた。
『いってきます』
 雄吾の笑顔と優しい声。
 それを感じると、とても穏やかな気持ちになれたんだよ、私。
 今日もいい子で待っているから、早く帰ってきてね、と心に留めて。
 目をつぶれば、いつだって会えるんだ。
 雄吾のことはけして、忘れない。
 雄吾、愛してる。
 いつまでも、いつまでも……。

 コンコンコン、コンコン!
 病室の扉をノックする音で目を開ける。
 この音は、匠だ。
 ほかの人とちがうリズムで叩くから、すぐに分かるんだ。
「はい」
 開いた扉に顔を向けていると、思った通りに匠が入ってきた。
 匠は私の顔を覗き込むように見てから、小さな紙袋を私に見せた。
「……ドーナツ。食べるか?」
「どー、なつ?」
 何? 知らない。
 匠やまるちゃんが持ってきてくれる食べ物は、目新しいものが多い。
 知らない私に教えるように、次々と品物を変える。
 甘いものは、あまり食べたことがなかったから、知らないものが多い。
 一年に一度、食べる誕生日ケーキと、忘れた頃に雄吾が買ってくるプリン。あとは、雄吾が働く銀行で出されて持ち帰ったまんじゅうやカステラくらいだろうか。
 雄吾は甘いものが苦手だった。
 だからいっしょに食べるケーキも、ひとくち食べるだけで、決まって、
『甘すぎっ。あとは栞にあげるよ』
 と、ギブアップして苦笑いしていた。
 最初はうれしかったホールケーキも、数日かけてひとりで片付けることになり、ようやく食べ切った頃には、しばらくケーキは見たくない、とさえ思った。
 雄吾のように苦手ではないけど、そんなに好きでもないのかもしれない。
 紙の上に出された、ドーナツ。
 丸くて、大きさは十センチくらい? リング状のきつね色した物に白いものがコーティングされている。
 やっぱり、初めて見る食べ物だった。
「ふうん。穴が開いてる。……ね、フォークは?」
「フォーク? フォークはいらない。ドーナツっていうのは、手に持ってかぶり付いて食べるんだ」
 え? 手がべたべたしそうな感じなんだけど。
「ふうん、まわりに付いているのは、甘いの? ……砂糖?」
「ああ。甘くておいしい、はずだ」
「はず?」
 匠の顔を覗き込む。
「……」
 言葉を飲み込んだ、やや気まずそうな顔があった。
「匠は? いっしょに食べないの?」
「……ああ。これは油で揚げてあるだろ? 脂っこいし、胃がもたれる」
 匠は胃の辺りを押さえて、眉をしかめて見せた。
 ふうん。苦手なんだ。
 甘いおやつの差し入れは、たいてい匠の分も持ってくる。私の知らない食べ物だと、先に食べて見せて、律儀にも感想を述べるんだ。
「甘いのは大丈夫なのに、油ものは苦手なんだね」
「……ああ。どうも胃が軟弱にできているらしい」
 ふうん、覚えておくよ。
 人にはそれぞれ苦手なものがある。
 私はどうも甘いものが、思っているよりも苦手らしい。
 それを、匠にいつ言おうか、迷っている。
 私にはまだ食べたことがない物がたくさんありそうだから。それを一通り口にしてから答えた方がいいのかもしれないって思って、なかなか言い出せないでいる。
 目の前のテーブルに置かれたドーナツを睨みつけるように見てから、おもむろに手を伸ばし、かぶりついた。
 あぁ、あ、あ、あっ、……、甘いっ!
 口の中で、強烈な甘さが暴れまわっている。そんな感じ?
 とてもおいしい、とは言えない味、だな。
 ふた口目を躊躇してドーナツを見ていると、
「おいしいだろ? このドーナツは有名で行列ができるほど人気があるらしいよ。まるちゃんが、並んで買ってきてくれたんだ」
 満面の笑みを浮かべた匠を、私は複雑な気持ちで見た。
「……まるちゃんにお礼、言わなくっちゃ、ね」
 私は、できるだけ顔に出さないように口元を引き上げて、笑ってみせた。

(2008/11/12)


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