見えてきた喫茶店オータムの窓を覗く。
中に栞の背中が見えて、ホッとする。
店主の亜紀さんは、栞のことを優しく見守ってくれているような雰囲気。カウンターに座っている春香さんと栞はなにか言っては笑い合っているのが見えた。
「ただいま。栞のこと、ありがとうございました」
「おかえりなさい」
亜紀さんは小さな声で、大丈夫だったわよ、と教えてくれた。
そこそこの挨拶でカウンターの方を見ると、笑顔の栞に迎えられた。
「栞。ただいま。泣かなかったみたいだな」
「お、おかえりなさい。……泣いてないもん」
いい子にしてたか、と頭を撫ぜる。
栞は満面の笑みで、僕にされるまま。
言うまでもなく、すっごく可愛い。
「ふっふっふ。もう、タケルくんったら、デレデレじゃないのよぉ〜」
春香さんの他人を茶化すような笑みにぶち当たり、眉を上げた。
「春香さん、美容室の方、空にしていいんですか?」
「あらん。いいのよ。ランチタイムの札を掛けてきたから」
ひとりで気楽に美容室をしているからか、隣という気安さからか春香さんはのんびりと言って、明るく笑った。
「それよりも、栞ちゃん見て驚かないの?」
ああ。もうすでに学校で見ちゃったからね。
「……バッサリといきましたね」
春香さんは、あたしの腕前もなかなかのもんでしょ〜、と腕組みをして背を反らしている。
栞はもうオータムの気さくな雰囲気に慣れたのか、余裕の表情で僕を見てきた。
「思いきってずいぶん短くしたんだ」
栞は目を大きく瞬かせてから、頷くと自分の前髪を触った。
「前髪があるヘアスタイルは初めてなんだって。栞ちゃん、可愛くなったでしょ」
亜紀さんは、前髪を触っている栞を代弁するように言った。
「ああ。……前よりはいいと思う」
「ええ〜。それはないわ。もうちょっと言い方があるでしょ。女の子はね、いつだってはっきりと可愛いって言ってほしいものなの〜」
春香さんは口を尖らせた。
「……」
んなこと、簡単に言えるかよ。
「ほら。栞ちゃん。待ってるよ。ひとこと言ってあげなさい」
春香さんは、僕の背中をバンバンと叩き、言うまで叩かれそうなくらい追い立てられた。
「か、――カワイイ、デス、ネ」
あー。そらみろ。焦らせるから言葉がおかしくなった。
歯の浮くような甘い言葉は吐けない。台本のあるセリフとちがって恥ずかしすぎる。
「キャー! タケルくんったら可愛い!! 顔が真っ赤っ赤〜」
うわぁ。顔のことはスルーしてくれ。いじるとかなしにしてくれ。
黄色い声の春香さんは放っておいて無視するに限る。
それにしても、可愛い、を直接伝えるってなかなかむずかしい。
でも。
間接的なら、どうだろう。
「栞。さっき、学校の裏門にいたろ? クラスのやつが見つけて、栞のこと可愛いって言って騒いでた。裏門あたりって、教室からわりと見えるからさ」
「え」
栞は明るかった表情を翳らせ戸惑いを見せた。
「栞のこと可愛いから紹介しろ、って言ってて」
とも、言ってみた。
「……」
言葉はなく、栞の瞳は心許なさそうに揺れている。
そうだよな。知らない人に可愛いって言われても、うれしくないよな。それに、心配するな。よく知りもしない男に紹介なんてしないから。
「栞。そんな不安そうな顔しなくても。大丈夫だって」
僕の言葉に栞は頷き、肩の少し下で軽くなった髪がふわりと揺れた。
よく似合ってる。
栞は髪を切って、元気そうに見えた。
どこか身体が悪いようには見えないけど、そろそろ病院に送っていかなくては、と思っていた。
朝の様子では、病院には戻りたくない、って言うかもしれない。
わがままで気が強いのも考えものだけど、とりあえずはお昼を食べてから説得しようか。
ちょうど、同じクラスの夏美も帰ってきて、亜紀さんがお昼を食べて行きなさい、と言ってくれた。
鉄板の上に卵が敷かれ、その上にスパゲッティーが乗っているオータム特製のナポリタンを作ってもらった。
半熟気味の卵をナポリタンといっしょに食べるのが美味しい。卵に火が完全に通ってしまわないように素早くフォークで絡め取り、口に運ぶ。
時間勝負のところがあるから、みんな無口になるのも頷ける。
亜紀さんはカウンター内で、春香さんも夏美もナポリタンをフォークに巻きつけて頬張っている。
ふと、栞を見るとフォークを持ったまま、みんなの食べるのを呆然と見ていた。
「鉄板のナポリタンは初めて?」
「……うん」
「下の卵を混ぜながら食べるといい。鉄板が熱いから触んないように気をつけて」
栞は従順に頷いて、ナポリタンに手をつけた。フォークに慣れていないのかひと口食べるまでに時間がかかっている。
生まれたてのバンビちゃんを思い浮かべ、吹きそうになった。一生懸命に立ち上がろうとするのに似ていて、見ていて微笑ましい。
ようやくひと口分をフォークに巻き取って、ナポリタンを口に入れた。
熱かったのか、はふはふしながら目を白黒させている。
表情までもが可愛い。
視線を感じたので見ると、春香さんが含み笑いを寄越してきた。
癪に障る。
僕の内面を完璧に覗かれているようでおもしろくない。
と、思ったものの、たいして反論も思い浮かばず、黙って自分のナポリタンに戻った。
何度目かの咀嚼の後。
「すごく、美味しいです」
と、栞が亜紀さんに向けて言った顔が、まじでとろけそうな笑顔をしていた。
もう。可愛いすぎだろ。
亜紀さんも春香さんもうれしそうだし、夏美も頷いて栞を見ている。
栞ってほんとまわりを柔らかくする空気感のようなものをまとっているように思えてならない。
「ママの作るナポリタンは昔ながらの喫茶店の味だから、間違いなく美味しいんだよね。これを毎日食べてきたもんだから、姉妹そろって無駄に背が高くなっちゃったんだよね〜」
春香さんは口をもぐもぐ動かしながら、他愛もないことを言っては笑わせる。
栞は打ち解けたように笑い、夏美は呆れた顔で姉の春香さんを見て頬をかすかに緩めた。
また来ることを約束して、栞と喫茶店オータムを出た。
「ね。深雪。また連れてってくれる?」
喫茶店を出てすぐに言った栞の言葉に首肯する。
亜紀さんも春香さんもあったかい人だし、オータムの居心地がよほど気に入ったんだろう。
「ああ。いいよ。また行こう!」
栞は希望通りの答えに笑みを深くした。
(2013/07/23)