9. 現実を生きる今夢など一切見ません
空の初登園は、理久同様、何の問題もなかったようだ。
愛がお迎えに行くと、空は機嫌よく笑顔でさっそくできたお友だちに手を振って「さよなら」して帰ってきた。先生にも落ちついて過ごせていた、と言われた。
空は本当によくできた子どもだと思う。
愛はさっそく晩ごはんの支度にとりかかった。元気そうな空だけれど、今日は初日で疲れたろうから早めに食べさせて寝かせようと思っていた。
それまでの間、空を退屈させないようにテレビをつけて、子どもが喜びそうな番組にチャンネルを替えよう、と思いながらふとテレビに吸い寄せられた。リモコンの存在すら頭から離れてしまう。
それは海外の王室の結婚の話題だった。
愛にはまったく関心のない、遠い国の出来事で、ましてや結婚とかないない、と否定しながらも、料理の手は完全に止まってしまっていた。
思い出したのだ。
まだ幼くて絵本の中の世界観と現実が曖昧だった頃のことを。
大人になれば、素敵な王子様が迎えに来て求婚してくれるものだと思っていた。
素敵なドレスに身を包んだお姫様になって王子様と結婚するんだって。
結婚式を空想しては絵本の中のお姫様になりきって夢見ていたっけ。
体がそんなに丈夫でなかった愛は幼稚園もバレエのお稽古も休みがちで、家の中で過ごすことが多かった。愛が退屈しないように母は可愛いワンピースをよく作って着せてくれた。
刺激のない日々。絵本の世界がすべてだった。
ひとりっ子の愛がさみしくないようにと、遊びに来てくれていたいとこの優花とお茶会を楽しむお姫様ごっこが大好きだった。
その優花は今、愛と同じ会社でバリバリと仕事をこなす社長秘書をしている。
愛も現実を生きる今、幼いころのような夢など一切見ません、と言い切れるし、ふわふわと甘い世界があったことは遠い遠い昔のことのように懐かしむだけだ。
「愛ちゃん。ぼく、おなかすいた〜!」
空腹を訴える空の言葉に、愛はお玉を持った手を握りしめ思い出をそっと閉じ込めた。
空が晩ごはんを待っている。
対面のキッチンカウンターから愛の顔を覗き込む空の仕草が可愛くて、愛は目尻を下げて微笑んだ。
「空くん。もうじき、できるよ」
愛は視線を落とし、頃合いを見てフライパンに水片栗粉を溶き入れた。
ひと煮立ちさせ、鍋肌からごま油をジュっと回しかけると、つやつやの肉団子の甘酢あんが出来上がった。
「さぁ。食べよう!」
空は本当に美味しそうに食べてくれる。
気持ちのいい食べっぷりに、愛もつられて食べた。ひとりの時より、絶対に多く食べている気がする。
太ってしまわないかと心配だ。
今夜、理久は芳村部長と営業部の精鋭たちと親睦を兼ね飲みに行っている。
理久はその誘いを当然のように断ろうとした。
空のことを知っているのはたぶん愛くらいだろう、と瞬時に察し「行ってきて」と書き殴ったメモ用紙と目配せで飲みに行くよう説得した。
そんなことがあって、愛は空をたんぽぽ保育園に迎えに行き、晩ごはんをふたりでとった。
「理久くん。おそいね。まだかな」
お風呂から上がった空は、ちょっぴり拗ねた表情をしながらも、初めての保育園で疲れたのだろう、理久の帰りを待てずに寝てしまった。
力が抜けた小さな体に布団を掛け直し穏やかな寝顔を愛はしばらく見ていた。
添い寝していることを不思議に思いながら。
結婚してこどもができたらこんな生活なんだろう。
疑似体験をしている今、この状況をまったく嫌だとは思っていない。
結婚が嫌な訳ではない。
むしろ、いつかは結婚するのだろう。当然、相手がいないとできないことだけど。
だからと言って恋愛をする気にはなれない。お見合いもしたくない。
両親からせっつかれる結婚とその先にある孫を期待されることに愛は億劫になっていた。
お見合いの話をされるとわかっているから実家から足が遠のいているし、久しく帰っていない。
母の友達の息子や娘の結婚ラッシュが終わらないと諦められないのか携帯のメールに着信する話題はそれ一色だった。
心配する母の気持ちもわからないでもないが、愛にとっては鬱陶しいだけだ。
結婚するどころか、疑似的に子どものいる生活に馴染んでしまいそうなのがおかしいけど、案外この状況を楽しんでいるな、と愛はひとり笑った。
日付が変わろうとする時間。
扉が微かに音を立てて開いた。寝静まったところを起こさないように慎重に足を運ぶスリッパの音を拾って愛は目を開いた。
黄色いダウンライトに照らされた中、ベッドに真っすぐやってきた理久に「おかえりなさい」と口を開いた。
「ただいま。空のこと、ありがとう。助かった」
理久のささやく声に愛は頷き、今日は日本での仕事始めで疲れているだろうと愛はベッドを空けようとした。
起き上がろうと動くより先に、愛の体を理久が抱きしめた。
ぎくりと体を強ばらせた愛の背中を理久の手がゆっくりと宥める動きを見せた。
アルコールと外の空気をまとった理久の体は心地よいとは思えず、腕の中で体を捩って抗う。
「……ん」
大きな体がしがみついて離れない。
「ダメ。スーツに皺がついちゃうから脱がないと」
「ん。……脱がして」
甘えたことをいう理久に愛はため息で応戦する。
「無理。自分で脱いで。お風呂湧いてるから入ってきて」
「うう。無理。……明日にする」
理久の体から力が抜けていき眠りに入ろうとしている。させてなるものか、と足先でもがいてアピーするも、しまいには疲れて諦めてしまう。
もう今夜はベッドから這い出せないだろう。
上着くらい脱いでから寝ればいいのに、わたしは抱き枕でもないのに、と不満に思いながら愛は目を瞑った。
(2018/5/10)
イラストもずねこ様