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 第三章 「胸に秘めた恋」 2.  by ゆり

 わたしには忘れられない人がいる。
 今では、憎いのか愛しいのかも、わからないけれど。


 わたしが生まれ育ったのは、漁港のある小さな町だった。
 鄙びた、という表現が正しいのか、年々漁師の数は減ってゆく一方で、朝の早いキツイ仕事は嫌煙されていた。
 わたしには父はなく、母とふたりで暮らしてきた。
 母はスナックをしていて、来るのは地元の漁師という常連客だけの小さなお店だった。
 繁盛とは無縁で、とても貧しかった記憶しかない。
 年頃になると母を手伝ってお店に出たりした。
 ある日、わたしにお見合い話が持ち上がり、とんとん拍子で結婚が決まった。
 食べていけたらなんでもいい、とあまり多くを望まなかった。
 夫となった人は小さい頃から知っている幼馴染で、勝海という名前の寡黙な人だった。
 結婚式は神社で、披露宴の代わりに、夫の家で飲んで騒いでの楽しい顔見せの場が設けられた。
 幸せだった。
 それがずっと続くと、あの頃は本気で疑わなかった。


 わたしが嫁いだ後。
 母は体調を崩しがちになり、スナックを手伝う日が増えていった。
 常連客のうちのひとりに、夫の弟の晴海がいた。
 お店の終わり頃に来て、ビールを一本飲んで帰って行く。
 それだけなのに、夫は弟の晴海に思うことがあったのか、次第に荒れていった。
「晴海はおまえをイヤらしい目で見てる」
「おまえは晴海が好きなんだろう」
「おまえは俺のものだ」
 お酒を飲み、暴力を振るい、犯される。
 毎日、繰り返された。
 それでも、わたしは夫を心底憎み切れないでいた。
 素面の夫はとても優しく、わたしを愛してくれたから。
 それに夫は子煩悩で、悪く言う人はいなかった。
 だから、夫よりお酒が憎い、と思うようになったのは、ごく自然なことだった。
 酒屋が届ける日本酒を薄めるようになったのは、少しでも夫の酔いが回らないようにするため。
 台所にあった空のペットボトルにお酒を移して、一升瓶のお酒を薄めた。
 漁に持っていく飲み水を入れるペットボトルだとは知らずに。
 それに気付いたのは、夫が行方不明になった日だった。
 飲み水と間違えて飲んだのはお酒で、酔っぱらった夫は時化始めた海に誤って落っこちたのではないか。
 恐ろしい想像をしては、ふさぎ込む日々。
 大変なことをしてしまった、と。
 胸のうちを誰にも打ち明けられず、後悔しては海を眺めた。
 一年、二年、三年、と。
 年を重ねていっても、わたしは港に行き夫を待った。
 もしかして夫は帰ってくるかもしれない、と。


 わたしには忘れられない人がいる。
 忘れてはならない人がいる。
 その人が帰ってくるまで、待っていなければならない。
 そのために、罪深いわたしは生きている。

(2016/12/19)


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