5.

 ここ、だ。
 たじろぐほどの立派なマンションを見上げる。首が痛くなりそうなくらい高い。二十階以上はあるだろうか?
 ここもオトコと同じ洗練されたデザイナーズマンションのようだ。エントランスも広く、間接照明で生花が美しく浮き上がって見えた。門のような扉から覗くと、奥にはしっかりしたセキュリティーが備わっているのが分かる。センサーの付いたのカメラが音もなく反応して、あたしに向けて作動する。赤い点滅が繰り返し見え、ますます緊張が高まる。カメラに撮られてるんだ。
 いったいどんな人が住んでいるんだろう?
 いつまでもカメラに撮られるのも嫌なので、おもいきって呼び出しボタンを押した。
 待つこともなく、
『誰?』
 インターフォン越しに、抑揚のない低い声がした。
「羽鳥 優(はとり ゆう)です」
 名前だけ、言ってみた。用件は? って訊かれたらなんて答えようか、と心臓はドキドキしている。
『ああ。親父から聞いてる。……そこ、開けるから右奥の方のエレベーターで一番上まで上がってきて!』
 それだけ言うと、いきなり通話を切られた。
<親父から聞いている>
 オトコの息子? どうしよう、男の人なの?
 扉が開いたので、急いで入り、中をキョロキョロ見渡す。
 右奥って?
 あ、あれかな? ああ――二基ある内の奥だ。そちらの方へ歩いた。
 オトコのマンションに似ていると思ったが、構造も似ている。迷いなくエレベーターに乗り込んだ。
 最上階の部屋。眺めなんかいいのかな?
 まだドキドキは治まらない。それより、近づくほど緊張してくる。
 エレベーターを降りると、その階のドアはひとつしかなかった。
 ワンフロアー全部が家って……。
 すごいっ。
 チャイムを鳴らそうか、どうしようか迷っていると、いきなりドアが開いた。
「遅い!」
 鋭い声が上から降ってきた。
 驚きが過ぎてあたしの体が震え出した。
 見上げると目が合った。すぐに、悪い、と謝る声がした。
 怒ったり、謝ったりする人を見て、また驚く。
 オトコに似ている。けど、ちょっと意地悪そうな顔が、冷たくあたしを見据えていた。
 二十代後半? 男の人にしてはやや線が細く、繊細に見える。黒に近い柔らかそうな髪の毛はオトコより若干短い。大きくはないがはっきりとしている涼しげな目に、ナチュラルな眉毛のバランスの良さはオトコによく似ている。
 オトコが若ければ、きっとこんな感じになるんだろう、と見つめた。
 見るほどに、オトコと共通するものがあって、胸がきゅっと窄まる。
 じっと見すぎていたのか、冷たい顔をした人もあたしのことをまじまじと見ていた。
「ふーん。あの人の趣味も変わったな。こーんな若いのがいい、なんてな」
 それから一言、入れば、と言ってあたしの肩を引っ張った。 初対面なのに、強引。
「あ、の、お邪魔します」
 段差のない玄関で慌てて靴を脱ぐ。ひんやりとした質感はたぶん大理石。
 一歩進むのも躊躇う。そんな雰囲気。あたしのキャリーバッグを軽がる持って歩く背中を見て、慌てて廊下をついて行った。
「左がクローゼット。右が洗面所とバス、トイレ。それから奥がリビングね。リビングの左側にあるドアがぼくの部屋で、部屋はクローゼットと繋がっている。で、右側のドアが書斎。きみの部屋は反対側。リビングとキッチンが見えるだろう? その奥の方にある。こっちに来て!」
 広いリビングを縦断する。
 大きな窓からの眺望がすばらしい。背の高いビルが光りを放って、キラキラと揺らめいて見える。こんな緊張の中ではちゃんと見ることはできないが、カーテンを閉めないでも外からは見えないらしいことは、なんとなく分かった。南面にあるキッチンは一見リビングと対面しているみたいに見えるが、余裕でテーブルセットが置けるほどのスペースがある。昼間なら採光が抜群にいいのだろう。贅沢な造りになっていて、料理好きの奥さんがいたら喜びそうだ。
「で。ここがきみの部屋。一応客間になっていて、小さなバス、トイレが付いているから。あの鏡のある扉がクローゼット。使いやすいように自由に使ってもらっていいし、洋服が収納し切れなかったら、隣の空き部屋を使ったらいい」
 客間の隣にある廊下を挟んだ部屋は二つとも空き部屋になっているらしい。
 次々と家の中を紹介されて思った。はっきり言って無駄に広すぎる。 典型的なお金持ちの家って感じ。
 ほかにも、キッチンの北側にあるドアの奥は家事室で洗面スペースと繋がっているのだとか。昨日まで住んでいたオトコの部屋もかなり広かったけど、ぜんぜん違う。ひとつひとつの部屋が広い。あたしの部屋と言われたところは、ダブルサイズのベッドが置かれ、まるで高級なホテルを感じさせる造りになっている。正直、あたしはついていけない。
 本当に、ここに住んでもいいって、ことですか?
 喉から出かかった言葉を引っ込める。
 「それから、言っておくけど、ぼくは、親父のお下がりは受けつけないから」
 お下がり?
 あたしのことを、愛人かなにかと勘違いしているの?
 でも、愛人の子供なんて、それに近い位置づけだよね。
 あたしは、逆らわないように、こくり、と頷いておいた。
「夕食は? もう食べた?」
「……まだ、です」
「じゃあ、なにか作ってもらえる? ぼくもまだ食べていないから。親父がさ、言ってたよ。きみの作る食事は最高においしいってね」
 意地悪そうに口元を引き上げ笑う、オトコの息子。
 ここに泊めてもらえるなら、なんだってしてみせる。
 あたしは、わざと笑みを作ってみせた。
 むこうはあたしを見て、ちょっと驚いた顔をしたけど、さっそく作ってもらおうと、不敵に笑った。


 キッチンに入って、驚いた。
 なに? なんにもないじゃない!
 炊飯器、電子レンジ、さらに鍋やフライパン、包丁、食器も見当たらない。
 後ろで腕組みしているオトコの息子を感じながら、扉という扉を開けた。
 最後に冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターしか入っていなかった。
 声に出して、馬鹿にしているのかって言いたくなったけど、ぐっと我慢する。
「あのぉ、買い物に行ってきます。この近くにあるスーパーを教えてください」
「スーパー?」
「はい」
「どうして?」
 どうしてって? そんなのあたしの方が訊きたいわよぉ!
「食事を作るのに、材料もなければ、お鍋や炊飯器、お皿もない。それでは、作れないんですけど!?」
 相手は考えたような顔をした後、納得したのか、
「ああ。そうか」
 なぁに? 天然はいってるの? このひと。
 笑いそうになるのを堪えて、
「たぶん、このキッチンでは一度も食事を作ったことがない、ですよね?」
「うん、ないね」
 即答。
 なんだって言うんだろう? 人を馬鹿にしたような言い方っていうか。温かさの欠片も感じられない。
 こんな冷たい人が、本当にあのオトコの息子なの?
 あたしはなんて言ったらいいのか分からなくなって、黙り込んだ。
「じゃあ、揃えるように言うから、待ってて」
 言うが早いか、どこかに電話をかけた。
「キッチンの道具を一通り揃えてくれないか? ……ああ。そうだ」
 それだけいうと、一方的に切った。
 ありえないでしょ。
 自分を名乗らなければ、ひとにお願いする人の言い方ではない。
 いったいどんな人なんだろう? じっと見る。
 物欲しそうな顔をしていたらしいあたしに気がつくと、
「今夜は外にしよう。きみもいっしょに来るといい」
 最後まで言わないうちに、あたしの腕を引っ張った。


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