ほんとうに危なかったかも。
逃げ込んだバスルームの扉にもたれ、胸に両手を当て、息を吐き出す。
さっきは翔に迫られたところで、携帯が鳴った。
命拾いした、と思った。
このあと、母を迎えに行く理由がなかったら、今頃あたしは……。
あんなことや、こんなことも……。
……。
ひゃーー!
考えただけでも、恥ずかしい。
経験はなくとも、耳だけは肥えている年頃のあたし。
想像力だけは逞しくなっていく。
熱い。
もう、駄目。恥ずかしすぎっ。
お湯に手を浸し、浮かんでくる妄想にびしゃびしゃと掛け消す。
そんなもので消えるわけもないのに。
馬鹿なあたし。
たっぷりのお湯に首まで浸かって、目をつぶり手足を伸ばした。
ああ、ほっとする。お風呂、好きだな。
……嫌なこと、ぜんぶ忘れられそう。
それくらい、気持ちがいい。
ほかほかの湯気がいっぱいのバスルームは、もちろん翔のマンションの一室で。贅沢だなって思う。
二十四時間風呂な上に、広々としている。
各部屋同様、真っ白で二人でも余裕で入れそうな広いバスタブ。ふちをつかんで足を伸ばせば、バタ足なんかも軽々できちゃう。
ちゃぷちゃぷ、言わせて遊んでみる。
小町さんなら、こう言うだろうな。
まぁ、リッチね〜。優雅だわぁ〜! なぁ〜んて。
お湯を両手ですくう。
柔らかで温かなお湯が手の中から零れ落ちる。
心なしか、高級な水音に聞こえて、それはないかって笑いが込み上げた。
でも、いいのか。
ここで、生活すること。
いいのかな? ……これで。
こんなにとんとん拍子で。
ほんとうは夢だったりしない?
だって、ここまで豪華なところは、そうないだろうし。
……。
ああ……。
もう考えたくないよ。
あたしは都合よく灰色な気持ちを追いやって、バスタイムを満喫した。
「どう? バスルームは」
のぼせ防止と泣き過ぎで顔上半分に冷たいタオルをのせていた。
頭上から突然聞こえた声に、我に返る。
目を覆うタオルをそろそろとずらす。
膝に手を置き、屈んだ格好で翔があたしを見ていた。
声も出ない。
驚きが過ぎてバスタブの中で飛び上がった。衝撃でタオルも吹き飛んだ。
うそぉ?
ノックもなしに?
いや、ノックしても入ってきちゃ駄目でしょう?
あたしの恥ずかしさなんか完全無視なんだ。
悪戯を楽しむように、翔はにやにやと笑っている。
タオルを引き寄せて広げ、できるだけ隠してみた。
フェイスタオルぽっちじゃ、隠せないんだけど。
「これを押すと、ジェットバスになる。マイクロバブルで好みの変化もつけられる。リラックスできるよ」
あたしの慌てた姿になんて気にも留めず、妙に落ちついた声で説明する。
翔の声がいい具合に反響して、あたしの脳を刺激する。
ほらっ、とスイッチをオンにしてみせると、バスタブの側面から泡が噴出し、お湯のカラーまで変化した。
ピンク色。
一面の白いバスルームがそれだけで可愛くなった。
「わぁー! これで薔薇の花びらを浮かべたら、映画のワンシーンみたい」
ひとり、盛り上がる。
「ああ。水中照明が付いてるんだ。どう? だんだんえっちな気分になってきた?」
えっち? そこかっ。
……な〜んて、思うわけがない。
そこまであたしはお人好しじゃないし、抜けてません。
さりげなく入ってきて爽やかそうに振る舞っても、ぜんぜん誤魔化されないんだからね。
浮かび上がり用を成さないタオルに、あたしの身体を見るんじゃない、と翔を睨みつけた。
「そんな気、ありません。もう、出ますから!」
ぴしゃり。
すばやくタオルを広げ隠すものを隠し、立ち上がった。
は?
……。
ぎ、ぎゃー!
な、なに? それ! あたしにはないモノが――。
「あ? ちょっ……見すぎだろ」
ま、見たいのならべつにいいけど? って。
ぎゃーー!!
バスルームだから、当然だって?
そりゃー、裸なのはしょうがないよ。服着て入る方がおかしいでしょ?
だけど、ちょっとくらいは隠そうよ。おかしいでしょ? まったく隠しもしないって。
なんて奴。
あたしは頭を左右に振った。
いけない、逆上せてきちゃったかも。
こんなとこにいつまでもいたら危ないわ。
「お先、です!」
タオルで頑丈にガードしながら、お湯を出た。
にやりと笑った翔があたしの前に立ちはだかり、ドン、とぶつかる。
濡れたあたしの頭にちゅ、と音を立ててキスした後、翔は背を向けて身体を洗い出した。
……なによ。
てっきりいやらしいことをされる、と思ったあたしは、肩透かしにあった気分になってしまった。
べつに、べつに期待なんかしてませんよ〜だっ。
バスルームの扉を隔てて、翔に向けて舌を出した。
頬を膨らませながら、髪の毛を乾かしていく。ドライヤーを荒々しく動かす。
扉の向こうでする音が、やけに翔を意識させて恥ずかしい。
早く、ここから出てしまおう。
リビングを抜けて、あたしの部屋だと教えてもらった客間に足を入れた。
きっちりとベッドメイキングされたアイボリーのカバー。腰かけてみる。
落ちついた雰囲気の部屋に、あたしは息を落とした。
これから過ごす部屋になるんだよね、ここは。
うれしいような、でも、馴染みのない高級感にお尻がむずむずするような、……そんな気持ち。
実感が湧かないのは慣れないせい。
目の前はクローゼット。扉の半面が鏡になっている。
居心地悪そうにベッドの端に座るあたし。タオルを巻いただけの貧弱な身体が映っていた。
小さく息を吐く。
着替えなくっちゃ。
キャリーバッグが置かれているクローゼット横へ歩く。
立て膝でチャックを開ける。床の上にバッグを広げ、服を取り出す。
選ぶほどの服はない。
しかもお洒落とはいい難いキャミの上に、量販店のワンピースを頭からかぶる。
立ち上がって鏡の前でひとまわり。自分の姿を映す。
ふんわりしたスタイルは、あたしの難を隠すお気に入りのもので、愛着があって嫌いじゃない。
けして高価なものじゃないけれど、あたしらしさがある。 これでいい。
すこし腫れぼったさの残る目元をなぞってみた。苦にするほどでもない。
薄く化粧し、リップグロスをのせる。
唇を引き上げて、微笑んでみる。
昨日までは泣きたい気分でみじめだったあたしを、笑っていられるようにしてくれたのは、翔。
感謝しなくちゃ、ね。
母を迎えに行く前に、あたしはキッチンに向かった。
お風呂を出てからなにも飲んでいない。喉がすごく渇いていた。
冷蔵庫にミネラルウォーターが冷やされていたっけ。
貰っても、翔なら怒らないだろう。
スライディングクローゼットに組み込まれた冷蔵庫を横目に見つけたのは……。
パン?
棚の上にドンクの袋。
ビニールの中は厚めにスライスされた食パンが入っていた。食欲をそそる甘い香りもする。
あれ?
カウンターにも、コーヒーメーカーがあった。
もしかして、と思って開けた冷蔵庫にも食材が入っていた。
トマトに、キュウリ、レタス、ほうれん草、豆腐、味噌、ヨーグルト、りんごにオレンジ?
昨夜、来た時はなかったはずなのに。
期待してなかったから、余計にびっくりした。
目を擦ってから、もう一度見る。
チルドルームにも、ハムに、ベーコン、鮭、油揚げ。
ドアポケットには、たまご、マヨネーズ、ケチャップ、牛乳、オレンジジュース、しょうゆ。
朝食の材料?
長く冷蔵庫を開けていたせいで、警告音がひと鳴りした。
いけない。冷気が漏れちゃう。慌てて閉めた。
これだけあれば、洋食も和食も作れるよね。
考えを巡らせる。
「優。それで何か作れる?」
振り向くと、ビジネスシャツを引っ掛け、パンツをざくっと穿いた翔が、ベルトを通しながら歩いてきた。
あたしは返事の前に、気になったキッチン周りを見渡した。
炊飯器と湯沸しポット、ホットプレート。
鍋も一通り、調理器具は全部揃っていた。
新しい。
それに、どれもセンスのいいもの。
昨日の今日で、これだもの。驚くのも無理はないでしょう?
だって買い物にも行っていないはず?
「どうして? どうしたら、こんなにすぐに用意できちゃうの?」
知らない間に、こぼれ出ていた。
ワインセラーを開けて見ていた翔は、表情のない顔でこちらを見た。
興奮しているのはあたしだけだ、と気づく。
恥ずかしい。
翔は濡れたままの髪を鬱陶しそうにかき上げ、くくっと笑った。
「ああ、そんなこと。優も昨日の電話を聞いてただろ? すぐに手配させたんだ。食事に出ている間に運んでもらった」
なんでもないことのように言う翔を見つめる。
すごいんだ、翔って。
和人さんにも驚かされることが多かったけど、息子の翔も同じ匂いがする。
仕事に行くらしい格好。
「いまから仕事ですか?」
「ああ。今日はゆっくり出勤すればいいから。作ってくれるんだろ?」
「わかりました。今日はパンでもいいですか? せっかく用意してもらっているので」
「うん、何でもいい」
揃えられた材料に、嫌いなものはないのだろう。
それを使って朝食を作ることにした。
ハムにスクランブルエッグを添えて。フルーツトマトのサラダ。トーストにコーヒー。りんご入りヨーグルト。
手早く、用意した。
新聞を読んでいる翔に声を掛ける。
「ふーん、けっこうすぐに作れるものなんだな」
あたしは頷く。
「簡単なのばかりですから……」
感想もなく口に運ぶ翔を見て、心配になる。
口に合わないのかな?
でも、材料からするとこんなものでしょう?
黙々と食べる翔にじれったくなる。
こんな時、和人さんなら頷いてくれたり、美味しいって言ってくれるもの。
翔と目が合った。
「なに? 優は、食べないの?」
え。そうじゃなくって。
「……おいしく、ない、ですか?」
「……」
え? なに?
「……そういや、うちで食事するのって、小学校を卒業して以来、かな」
はぁ? なんてこと言うんですか? この人は。
「……」
でも、真面目な顔だ。
うそぉ。
それも母親ではなく、使用人の作る料理を食べて育ったこと。小学校卒業と同時に寮付きの中学に入ったため、実家からは早くに独立したこと。
翔は淡々と語った。
美味しいも、不味いも、言うことを知らない?
なんて可哀想な人なんだろう。
さぞや孤独な生活だったでしょ?
「なにうるうるさせてるの? 優。そんな目で見て。どうなっても知らないよ」
涙を溢れさせていた頬を、翔の手で拭かれていた。
「こ、これからは、あたしが作りますっ。それで、それでね、出来るだけいっしょに食べましょう? ねっ! それで、おいしい、とか、不味いとか言ってください。そうしたら翔の好みがわかるから。ねっ、そうしましょ」
翔の過ごした寂しい過去を思い、元気を出してほしくて明るく言ってみせた。
食べる手を止めて見ていた翔は、スクランブルエッグをひと口入れると、
「これ、……美味いよ」
視線を外し、照れたように笑った。
(2009/10/6)