3.

 ほんとうに危なかったかも。
 逃げ込んだバスルームの扉にもたれ、胸に両手を当て、息を吐き出す。
 さっきは翔に迫られたところで、携帯が鳴った。
 命拾いした、と思った。
 このあと、母を迎えに行く理由がなかったら、今頃あたしは……。
 あんなことや、こんなことも……。
 ……。
 ひゃーー!
 考えただけでも、恥ずかしい。
 経験はなくとも、耳だけは肥えている年頃のあたし。
 想像力だけは逞しくなっていく。
 熱い。
 もう、駄目。恥ずかしすぎっ。
 お湯に手を浸し、浮かんでくる妄想にびしゃびしゃと掛け消す。
 そんなもので消えるわけもないのに。
 馬鹿なあたし。
 たっぷりのお湯に首まで浸かって、目をつぶり手足を伸ばした。
 ああ、ほっとする。お風呂、好きだな。
 ……嫌なこと、ぜんぶ忘れられそう。
 それくらい、気持ちがいい。
 ほかほかの湯気がいっぱいのバスルームは、もちろん翔のマンションの一室で。贅沢だなって思う。
 二十四時間風呂な上に、広々としている。
 各部屋同様、真っ白で二人でも余裕で入れそうな広いバスタブ。ふちをつかんで足を伸ばせば、バタ足なんかも軽々できちゃう。
 ちゃぷちゃぷ、言わせて遊んでみる。
 小町さんなら、こう言うだろうな。
 まぁ、リッチね〜。優雅だわぁ〜! なぁ〜んて。
 お湯を両手ですくう。
 柔らかで温かなお湯が手の中から零れ落ちる。
 心なしか、高級な水音に聞こえて、それはないかって笑いが込み上げた。
 でも、いいのか。
 ここで、生活すること。
 いいのかな? ……これで。
 こんなにとんとん拍子で。
 ほんとうは夢だったりしない?
 だって、ここまで豪華なところは、そうないだろうし。
 ……。
 ああ……。
 もう考えたくないよ。
 あたしは都合よく灰色な気持ちを追いやって、バスタイムを満喫した。

「どう? バスルームは」
 のぼせ防止と泣き過ぎで顔上半分に冷たいタオルをのせていた。
 頭上から突然聞こえた声に、我に返る。
 目を覆うタオルをそろそろとずらす。
 膝に手を置き、屈んだ格好で翔があたしを見ていた。
 声も出ない。
 驚きが過ぎてバスタブの中で飛び上がった。衝撃でタオルも吹き飛んだ。
 うそぉ?
 ノックもなしに?
 いや、ノックしても入ってきちゃ駄目でしょう?
 あたしの恥ずかしさなんか完全無視なんだ。
 悪戯を楽しむように、翔はにやにやと笑っている。
 タオルを引き寄せて広げ、できるだけ隠してみた。
 フェイスタオルぽっちじゃ、隠せないんだけど。
「これを押すと、ジェットバスになる。マイクロバブルで好みの変化もつけられる。リラックスできるよ」
 あたしの慌てた姿になんて気にも留めず、妙に落ちついた声で説明する。
 翔の声がいい具合に反響して、あたしの脳を刺激する。
 ほらっ、とスイッチをオンにしてみせると、バスタブの側面から泡が噴出し、お湯のカラーまで変化した。
 ピンク色。
 一面の白いバスルームがそれだけで可愛くなった。
「わぁー! これで薔薇の花びらを浮かべたら、映画のワンシーンみたい」
 ひとり、盛り上がる。
「ああ。水中照明が付いてるんだ。どう? だんだんえっちな気分になってきた?」
 えっち? そこかっ。
 ……な〜んて、思うわけがない。
 そこまであたしはお人好しじゃないし、抜けてません。
 さりげなく入ってきて爽やかそうに振る舞っても、ぜんぜん誤魔化されないんだからね。
 浮かび上がり用を成さないタオルに、あたしの身体を見るんじゃない、と翔を睨みつけた。
「そんな気、ありません。もう、出ますから!」
 ぴしゃり。
 すばやくタオルを広げ隠すものを隠し、立ち上がった。
 は?
 ……。
 ぎ、ぎゃー!
 な、なに? それ! あたしにはないモノが――。
「あ? ちょっ……見すぎだろ」
 ま、見たいのならべつにいいけど? って。
 ぎゃーー!!
 バスルームだから、当然だって?
 そりゃー、裸なのはしょうがないよ。服着て入る方がおかしいでしょ?
 だけど、ちょっとくらいは隠そうよ。おかしいでしょ? まったく隠しもしないって。
 なんて奴。
 あたしは頭を左右に振った。
 いけない、逆上せてきちゃったかも。
 こんなとこにいつまでもいたら危ないわ。
「お先、です!」
 タオルで頑丈にガードしながら、お湯を出た。
 にやりと笑った翔があたしの前に立ちはだかり、ドン、とぶつかる。
 濡れたあたしの頭にちゅ、と音を立ててキスした後、翔は背を向けて身体を洗い出した。
 ……なによ。
 てっきりいやらしいことをされる、と思ったあたしは、肩透かしにあった気分になってしまった。
 べつに、べつに期待なんかしてませんよ〜だっ。
 バスルームの扉を隔てて、翔に向けて舌を出した。
 頬を膨らませながら、髪の毛を乾かしていく。ドライヤーを荒々しく動かす。
 扉の向こうでする音が、やけに翔を意識させて恥ずかしい。
 早く、ここから出てしまおう。
 リビングを抜けて、あたしの部屋だと教えてもらった客間に足を入れた。
 きっちりとベッドメイキングされたアイボリーのカバー。腰かけてみる。
 落ちついた雰囲気の部屋に、あたしは息を落とした。
 これから過ごす部屋になるんだよね、ここは。
 うれしいような、でも、馴染みのない高級感にお尻がむずむずするような、……そんな気持ち。
 実感が湧かないのは慣れないせい。
 目の前はクローゼット。扉の半面が鏡になっている。
 居心地悪そうにベッドの端に座るあたし。タオルを巻いただけの貧弱な身体が映っていた。
 小さく息を吐く。
 着替えなくっちゃ。
 キャリーバッグが置かれているクローゼット横へ歩く。
 立て膝でチャックを開ける。床の上にバッグを広げ、服を取り出す。
 選ぶほどの服はない。
 しかもお洒落とはいい難いキャミの上に、量販店のワンピースを頭からかぶる。
 立ち上がって鏡の前でひとまわり。自分の姿を映す。
 ふんわりしたスタイルは、あたしの難を隠すお気に入りのもので、愛着があって嫌いじゃない。
 けして高価なものじゃないけれど、あたしらしさがある。 これでいい。
 すこし腫れぼったさの残る目元をなぞってみた。苦にするほどでもない。
 薄く化粧し、リップグロスをのせる。
 唇を引き上げて、微笑んでみる。
 昨日までは泣きたい気分でみじめだったあたしを、笑っていられるようにしてくれたのは、翔。
 感謝しなくちゃ、ね。

 母を迎えに行く前に、あたしはキッチンに向かった。
 お風呂を出てからなにも飲んでいない。喉がすごく渇いていた。
 冷蔵庫にミネラルウォーターが冷やされていたっけ。
 貰っても、翔なら怒らないだろう。
 スライディングクローゼットに組み込まれた冷蔵庫を横目に見つけたのは……。
 パン?
 棚の上にドンクの袋。
 ビニールの中は厚めにスライスされた食パンが入っていた。食欲をそそる甘い香りもする。
 あれ?
 カウンターにも、コーヒーメーカーがあった。
 もしかして、と思って開けた冷蔵庫にも食材が入っていた。
 トマトに、キュウリ、レタス、ほうれん草、豆腐、味噌、ヨーグルト、りんごにオレンジ?
 昨夜、来た時はなかったはずなのに。
 期待してなかったから、余計にびっくりした。
 目を擦ってから、もう一度見る。
 チルドルームにも、ハムに、ベーコン、鮭、油揚げ。
 ドアポケットには、たまご、マヨネーズ、ケチャップ、牛乳、オレンジジュース、しょうゆ。
 朝食の材料?
 長く冷蔵庫を開けていたせいで、警告音がひと鳴りした。
 いけない。冷気が漏れちゃう。慌てて閉めた。
 これだけあれば、洋食も和食も作れるよね。
 考えを巡らせる。
「優。それで何か作れる?」
 振り向くと、ビジネスシャツを引っ掛け、パンツをざくっと穿いた翔が、ベルトを通しながら歩いてきた。
 あたしは返事の前に、気になったキッチン周りを見渡した。
 炊飯器と湯沸しポット、ホットプレート。
 鍋も一通り、調理器具は全部揃っていた。
 新しい。
 それに、どれもセンスのいいもの。
 昨日の今日で、これだもの。驚くのも無理はないでしょう?
 だって買い物にも行っていないはず?
「どうして? どうしたら、こんなにすぐに用意できちゃうの?」
 知らない間に、こぼれ出ていた。
 ワインセラーを開けて見ていた翔は、表情のない顔でこちらを見た。
 興奮しているのはあたしだけだ、と気づく。
 恥ずかしい。
 翔は濡れたままの髪を鬱陶しそうにかき上げ、くくっと笑った。
「ああ、そんなこと。優も昨日の電話を聞いてただろ? すぐに手配させたんだ。食事に出ている間に運んでもらった」
 なんでもないことのように言う翔を見つめる。
 すごいんだ、翔って。
 和人さんにも驚かされることが多かったけど、息子の翔も同じ匂いがする。
 仕事に行くらしい格好。
「いまから仕事ですか?」
「ああ。今日はゆっくり出勤すればいいから。作ってくれるんだろ?」
「わかりました。今日はパンでもいいですか? せっかく用意してもらっているので」
「うん、何でもいい」
 揃えられた材料に、嫌いなものはないのだろう。
 それを使って朝食を作ることにした。
 ハムにスクランブルエッグを添えて。フルーツトマトのサラダ。トーストにコーヒー。りんご入りヨーグルト。
 手早く、用意した。
 新聞を読んでいる翔に声を掛ける。
「ふーん、けっこうすぐに作れるものなんだな」
 あたしは頷く。
「簡単なのばかりですから……」
 感想もなく口に運ぶ翔を見て、心配になる。
 口に合わないのかな?
 でも、材料からするとこんなものでしょう?
 黙々と食べる翔にじれったくなる。
 こんな時、和人さんなら頷いてくれたり、美味しいって言ってくれるもの。
 翔と目が合った。
「なに? 優は、食べないの?」
 え。そうじゃなくって。
「……おいしく、ない、ですか?」
「……」
 え? なに?
「……そういや、うちで食事するのって、小学校を卒業して以来、かな」
 はぁ? なんてこと言うんですか? この人は。
「……」
 でも、真面目な顔だ。
 うそぉ。
 それも母親ではなく、使用人の作る料理を食べて育ったこと。小学校卒業と同時に寮付きの中学に入ったため、実家からは早くに独立したこと。
 翔は淡々と語った。
 美味しいも、不味いも、言うことを知らない?
 なんて可哀想な人なんだろう。
 さぞや孤独な生活だったでしょ?
「なにうるうるさせてるの? 優。そんな目で見て。どうなっても知らないよ」
 涙を溢れさせていた頬を、翔の手で拭かれていた。
「こ、これからは、あたしが作りますっ。それで、それでね、出来るだけいっしょに食べましょう? ねっ! それで、おいしい、とか、不味いとか言ってください。そうしたら翔の好みがわかるから。ねっ、そうしましょ」
 翔の過ごした寂しい過去を思い、元気を出してほしくて明るく言ってみせた。
 食べる手を止めて見ていた翔は、スクランブルエッグをひと口入れると、
「これ、……美味いよ」
 視線を外し、照れたように笑った。

(2009/10/6)


back ←  → next

top

inserted by FC2 system