母を迎えに銀座へ向かった。
翔は運転しながら、しきりにいっしょに行く、と言い張り、ひとりで大丈夫と言うあたしと、平行線をたどった。
翔は黙ってしまったままだ。
青山通りを走り、途中だらだらと進む。
渋滞に入るかと思ったけれど、止まってしまうこともなく大きな公園が右手に見えてくる。
あたしは、心を動かすこともなく、流れていく景色を眺めた。
マンションから十五分ほどで目的地近くまで来てしまった。
あたしは膝の上でワンピースの生地を握りしめ、運転席の翔を見た。
相変わらず横顔は硬いまま、そっぽを向いている。
そろそろ、だ。
「あの、……この辺で降ろしてください。この通りから中に入って行くので……」
あたしは意識してやわらかめに話しかけた。
翔の好意を無視するかたちになったのだから。
運転席からは、嘆息と苦微笑。
返事はなかった。怒っていると言うよりは、拗ねている顔。
方向指示器の合図の後、追い越し車線から移り、ゆっくりと歩道側に寄せられ、止まった。
ハザードランプの音が、沈黙の車内に響く。
あたしは膝にのせていたバッグを掴み、降りようと翔の方を向く。不意にハンドルから手が伸びた。
「優、待って」
ジャケットから慣れた手つきで出すと、ペンを動かし、一枚の名刺をあたしに握らせた。
「いつでもいい。連絡して。夕方の会議には携帯の電源を落とす。その時は裏に書いてある番号に掛けて。直だから」
名刺の裏には数字が走り書きされていた。
「はい」
おとなしく頷き返した。
行って、と翔はあたしの手を離す。納得してはいない顔で。
心のなかで、ごめんなさい、と謝る。
「…………お仕事、がんばってください」
取ってつけたような言葉しか言えなかった。
あたしは小町さんについて話せない罪悪感から逃げるように、車を降りた。
翔は訝しげにあたしを見る。
けれど、小町さんと会わせるわけにはいかなかった。
助手席のパワーウインドウが下がる。何かを言いたげな翔を制し、
「必ず連絡します。送っていただき、ありがとうございました」
歩道からもわかる不満そうな翔に、ぺこりとお辞儀し、車を離れた。
後ろめたい気持ちのせいか、歩く足が重い。
並木通りから一本入った細い路地の先に、小町さんの小料理屋が入った細長いビルがある。
一、二階がお店。三階から五階が住まいになっている。
そこに居るはずの母のところへ急いだ。
コンクリートの内階段を上がる。
行き止まり三階の玄関のチャイムを押す。
反応がない。
二回目を押してみた。
呼び出すために押したのに、インターホンの音は鳴らなかった。
繋がらないみたい。
ああ、と思う。
あの頃から、壊れたままになっているんだ。
相変わらずだな。
「小町さ〜ん! 優です」
家にいるはずの小町さんに聞こえる大きさの声をかけ、勝手知ったるところと開けて入った。
もうここに来なくなって、三年とちょっと。
ちっとも変わっていない。
古いビルにしては、手入れされキレイに保たれている。ただ、チャイムとか電気器具だけは取り替えないでいる。
小町さんは、機械に弱いのよぉ、と困った顔をしてこぼすんだ。いつも。
玄関を上がり廊下を歩く。
「小町さ〜ん!」
「はぁ〜い。優ちゃん?」
キッチン側のドアが開けられ、小町さんがひょっこり現れた。
ああ、小町さんだ。ちっとも変わっていない。
和服がよく似合っていて、すらりと佇む姿は、イメージ通りの笑顔だ。
「久しぶり〜、元気だったの? ん〜、優ちゃんったら、ちっとも顔を出さないんだもの。さみしかったのよぉ〜」
優しい声とともに、ふわりと抱きしめられた。
変わらない笑顔と、懐かしい匂い。
この雰囲気、いいわ。安心できるんだよね。不思議と。
あたしもつられて笑った。
悲しい時でも、さみしい時でも、小町さんの顔を見たらころっと忘れちゃえるんだ。
ここに来ると、魔法にかかったみたいに、あたたかい気持ちでいられる。
まさに小町マジックだ。
「あたしも、ずっと会いたかった〜。小町さ〜ん!」
まぁ、まぁ、まぁ、相変わらず可愛いのね、と小町さんはあたしをぎゅっと抱きしめる。
ほんと、なんとも言えない、いい匂いがする。
「小町さん、いい匂〜い。小町さんの匂い」
うーんと、吸い込む。
そう? と、小町さんは赤くなって照れ笑いする。
きっとこんな風に母も迎えたんだろうな。小町さん。
「……あのね、お母さんのこと、……ごめんなさい」
「ああ。ほらっ、そこ見て? 律ったら、寝てるでしょ。たぶん、まだ起きないわよぉ」
しょうがない母親よね、と眉を下げる小町さんにあたしも頷く。
母は、ケットに丸まって目をつぶっている。
すーすーとゆっくりと息をして、ぐっすり眠っている。
穏やかな寝顔。
「小町さん、……ごめんね。迷惑かけて。……今回の喧嘩は和人さんとあたしのことを疑って、お母さんったら、家出したの」
訳を聞いた小町さんは、ちょっとだけ目を大きくして、でもすぐに、ふふっ、と笑って、あたしの頬を包んで顔を上げさせた。
「そう。綺麗になったもんね、優ちゃんは。……律ったら、馬鹿ね。娘に嫉妬しちゃって」
相変わらずね〜、律ったら、と。どうしようもない母を優しげにそっと見やった。
<綺麗になったもんね>
聞き慣れない言葉が、頭に遅れて入ってくる。
とてもそんな風には思えない。
落ちつきなく腰を浮かす。
「……やだ、そんなことないよ。あたしなんか、綺麗じゃないもん」
「ふふふっ、そんな風に思ってちゃ駄目よ。優ちゃんったら、しばらく見ないうちに綺麗になったわ。ほんと……だんだん律に似てきたわぁ」
そうかな?
母に似てきたって言われるのは微妙だけど。
綺麗になった、と褒められるのは悪くはないかもしれない。
その言葉に、あたしの背中はこそばゆくなった。
容姿に関しては、綺麗すぎる母を持つせいで、あまり触れられることがなかったから。
まぁ、しょせんその程度なんだ。
あたしを説明するとき、必ず、<お母さんは綺麗なのに……>が付く。それって、そのあとに続く言葉は、<……あなたはそうでもない>でしょ?
いいの。自分のことはよくわかっているから。
それにしても。
母を今の状態にはしておけない。
早いうちに誤解を解かないと。それで和人さんのところに連れて行って仲直りさせないと。
「そんなことだから、すごく和人さんが心配してるの。午後にはお母さんを、連れて行くから」
「そ? どんな状況なのか、わたしには分からないけど、律のことだから、無理に連れて行くのは良くないわよ。……納得させないとね」
ん。そうなんだよね。
母は、意外と頑固で、こう、と思ったら絶対に言うことを聞かないし、執念深いところもある。
「和人さんは、お母さんに『帰っておいで』って言ってるの。だから、迎えに来てもらった方がいいのかな? だけどね、この喧嘩はお母さんの方が一方的に悪いんだよ。ただの誤解なんだから」
「う〜ん。そうねぇ」
小町さんは腕組みをして考え込む。
「とりあえず、律が起きて、話をよく聞いてからにしましょうか」
話はそうまとまった。
母は、憎らしいほど安らかな顔で眠っている。
どうか、和人さんと上手く仲直りしますように。
和人さんを見つめて穏やかに微笑む母は、やっぱり美しい。和人さんも然り。
「それとね、小町さん、あたしも家を出たの」
「え?」
小町さんの驚く顔を見ながら、あたしは続けた。
「言ったでしょ? 喧嘩の原因があたしにあるって。だからね、昨日から和人さんの息子さんのマンションでお世話になってるの」
急に小町さんの顔が曇った。
「どうして? うちに帰ってこなかったの?」
責める風でもなく、ただ悲しげに小町さんは首を傾けていた。
だって……。
小町さん家には行かない、って母と約束していたし――。
「……あたしなら大丈夫だよ。……ね、それより、息子さんは? あたし会ったこと、ないよね?」
住む家の話を終わらせるべく、息子さんの話をふった。
「そう? 会ったことなかった? もうじきバイトから帰ってくるから挨拶させるわね。……でも、同じ大学だし、同級生でしょ? 知ってるんじゃないかしら?」
小町さんは、さらに首を傾げた。
「同じ大学? 同級生なの?」
「ええ、そうよ。学部がちがうから会わないのかしら?」
小町さんは、冷たいお茶をあたしに勧めながら、また首を傾げた。
朝ご飯は食べたの? と心配そうな顔で問いながらあたしを見て、
「そろそろ愚息が帰ってくるから、ご飯の用意でもしましょうか。ほんと、あの子ったら、気ままなものよ。家業を継ぐからって就職活動もしないでしょ? 一日中、好きなことをしているわぁ」
「そっか。小町さんのご実家って、お華の先生だったよね?」
「ええ。あれで家元になるのかしらって心配になっちゃうくらいなのよぉ」
ふふふっ、と小町さんは首をすくめて笑った。
(2009/10/8)