「――っま〜!」
遠いからか、微妙な<ただいま>の挨拶が聞こえて、あたしと小町さんは顔を見合わせた。
息子さんが帰ってきたらしい。
階段を慣れたリズムで上がって来る靴音の後、玄関のドアの開閉が伝わってきた。間もなくキッチン側のドアの開く音がして、小町さんがいそいそと立ち上がった。
ここの居間はキッチンと隣り合い、襖を隔てているだけなので、人の気配は筒抜けだ。
流行りのJポップの口笛。水の流れる音。ガチャガチャ、バタン、と生活感溢れる音。
ああ、手を洗っているな。冷蔵庫を物色したな。目に見えない分、想像してしまう。
きっと、同じことを思ったのだろう。
小町さんは、いや〜ね、と肩をすくめ、居間の襖を開けた。
「蒼甫(そうすけ)さん! ちょっと、こっちに――ああっ、また直飲みしてぇ」
あたしの座っている位置から、キッチンが垣間見える。
小町さんの背中の向こうに、腰に手を当て牛乳を飲んでいる人が見えた。パックごと豪快に。
白いTシャツとずり落ちたぶかぶかのパンツ姿。パンツの後ろポケットからは長財布がはみ出ている。茶色に染めた長めの髪が街でもよく見かける若い男の人だとわかる格好だ。
小町さんの声に反応した、その人は居間に顔を動かした。
口元には見事な牛乳のヒゲができている。そんなものでは惑わされない見覚えのある顔だった。
「「あ!」」
声が同時に上がる。あたしもぽかん、と口を開けていた。
コンビニの店員さんだ。
そう、紅茶の人。
昨日の朝、家を出たあとパンを買ったコンビニで紅茶をくれた、あの男の人があたしを指差して驚いていた。
こっちだって、じゅうぶん驚いてます、って。
そっか、小町さんの息子さんだったのか。
こんな偶然あるんだ、と思う。
照れているのか、牛乳パックを片手に持ったまま、頭を掻きながらぺたんぺたんとスリッパを引きずって歩いてきた。
「やっぱ、家出?」
居間に入るなり訊いてきた。
「いや〜ね、蒼甫さんったら。家出は律の方でしょ? ほらっ、口拭きなさいよ。牛乳ついてるわよ」
聞いてるんだか聞いてないんだかわからない顔をしながら、無造作に口元を拭うと、
「あ? そう。そっか。な〜んだ。昨日、俺のバイト先にキャリーバッグを引いて来たから、てっきり、家出だと……」
「あ、あの時は、ごちそうさまでした」
あたしは紅茶の人に、いや、小町さんの息子さんにかぶせるように言った。
息子さんは最後まで言わせてもらえなかったのに、人懐っこい笑顔で、どういたしまして、と返してきた。
「ごめんなさいね〜、優ちゃん。紹介するわ。この子がさっき話した次期家元の小野田 蒼甫(おのだ そうすけ)。――ほらっ、優ちゃんにご挨拶なさい!」
小町さんは焦り気味に促す。
「あ? もう挨拶はいいんじゃねー? きのう会ったし。同じ大学だし。優ちゃんはミスキャンパスだもんな! 俺の方はよ〜く知ってっから」
「あ、あれは――」
勝手に、絵美がっ……。
あー、もう思い出したくないったら。
あたしは二年の時に、知らない間にミスコンに参加させられて、……嵌められただけで、あの時は本当に焦ったんだよ。
あたしは、当時を思い出し、赤面した。
「わたしもあの時は、こっそり行って投票したのよぉ〜。優ちゃんったら、とっても可愛かったわぁ〜。ねっ! あの時の写真、見る? たっくさん撮ったのよぉ〜。見る? 見るでしょう?」
「ええっ? 写真?」
小町さん、来てたの? それに写真まで撮ってたの?
「そう、そう。それだけじゃねんだよな、小町。あん時の優ちゃんの写真をでかでかと引き伸ばしてさー、店に貼ってあんだぜ。やめろっつっても、まったく聞きゃしねぇし……」
知らなかった。そんなこととは。
蒼甫さんは、小町さんを面白可笑しくからかった。
「い、いいじゃないのよぉ〜。蒼甫さんったら、何も今言わなくってもぉ……」
小町さんは罰が悪そうに、ぶつぶつ言いながらキッチンに逃げていった。
知らなかった。
「……ここ三年ほどは、ここにもぜんぜん来てなかったから知らなかった」
ほんとにさみしかったんだから、あたし。
「ああ、俺も写真見せられるまで知らなくってよぉ。大学で見かけるたび、挨拶しようかって迷ったんだけどさ、いきなり声かけんのもなーって、なんとなく、しそびれちまって……。まぁ、もっともこんなことなら、話しかけとくんだったよな」
言ってから、また牛乳をがぶがぶ飲んでいる。
……似てない。
この人、小町さんに似てないな、と思いながら見た。
小町さんは線が細くて女性らしいやわらかな印象で猫っぽい。
蒼甫さんは逆にがっしりとしていて男らしく完全に犬タイプ。
顔の作りもぜんぜん似てない。
小町さんはすっきりとした切れ長の目で、ひとつひとつのパーツはあまり主張していない。
蒼甫さんは逆で、大きくはないけどコロンとした丸い目に鼻筋が強調されていて唇も大きくぽってりと厚い、はっきりとした顔をしている。
似ている部分を探す方がむずかしいかもしれない。
蒼甫さんは、きっとお母さん似なんだろうな。
「蒼甫さんは、お母さん似?」
「……いんや、俺はもろ親父似」
うそ、ぜんぜん似てない……。
とは、言えなかった。
あたしはすぐに返事ができず、キッチンに立っている小町さんと、居間で胡坐をかいている蒼甫さんを見比べた。
「はは〜ん。似てないって? そうさ、小町と俺は似てねーよ」
な、なんにも言ってないのに。
思っていたことを言い当てられて、口を噤んだ。
「べつにいいって。俺は死んだ親父に似てんの。恐ろしいほどクリソツでさ、この間予告なしで実家に帰ったら、お袋がはっとした顔で俺のこと見るんだぜ」
「え?」
「知らねーよな、優ちゃんは。俺の親父は三代目家元なの」
三代目家元?
「ああ。俺の親父と小町は兄弟。親父は長男で、小町は二男。俺の親父が死んだ後、爺様が小町とお袋を結婚させたんだわ。まぁ、小町には家元ってそんな気なかったみたいだけど……」
蒼甫さんはそう言って、笑った。
「蒼甫さんは家元に?」
「ああ、そのつもり。今は爺様が頑張ってっけど、もう年も年だしな」
仕方ねーよ、ほかに継ぐモンいねーし、と首をすくめている。
「まぁまぁまぁ、な〜に? あなた達、もう仲良くなっちゃったのぉ?」
小町さんは蒼甫さんの朝ご飯をお盆にのせ、座卓に手際よく並べていく。
甲斐甲斐しい。
だし巻き玉子がふわんふわんに焼けて目にも美味しそうな湯気が立っている。 西京漬けのさわらがこんがりと焼けていい香りがするし、ごはんもつやっつや。
「美味しそう。やっぱり小町さんの作ったものは美しいね。また、教わりたいな」
ほかに彩りも考えられたおかずが並び、さっき食べたはずなのに、また食べたくなってきた。
「旨っそう! 優ちゃんも食えば? ほらっ、玉子焼き好きなんだろ? やるよ。あ〜ん、してみ」
蒼甫さんは、あたしの口に玉子焼きを放り込んで、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「な、旨いっしょ?」
うーん、おいし〜。
もぐもぐ口をさせながら、あたしは頷かされていた。
「ほんっと、優ちゃんってカワイイよな。顔、赤くしてさ」
ほとんど初対面なのに、なんだかもっと前から知っているような――。
……蒼甫さん、か。
小町さんのお兄さんの子で、小町さんとは直接血は繋がっていないんだ。
ふ〜ん。
……って、いうことは、小町さんには子どもがいないっていうこと?
そうか、うん。……なんか、納得。
どうしてだろって思ってたから、妙にすっきりしちゃった。
「……な、だからさ。優ちゃんは俺に遠慮することなんてないんだぜ」
遠慮?
「遠慮って?」
「いや、だから、小町にどんどん会いに来ればいい、つってんの!」
ああ。そういうことか。
蒼甫さんは、そうしろよ、と頭を掻いて言った。
でも、母はそうしちゃいけないって、言ったんだよ。
約束してるんだよ?
母を見ると、相変わらず寝息をたてている。
「本当に、さみしかったのよ。急に来てくれなくなっちゃってぇ」
小町さんも、頷き頷きしている。
「あたし、来てもいいのかな……」
「な〜に水臭いこと言ってんのよ、優ちゃんったら! 本気で怒るわよぉ〜」
だって、駄目って言った本人は、夢の中だし――。
もう、わかんないよ。
あたしは小町さんと蒼甫さんを代わる代わる見て、眉を下げて曖昧に笑った。
小町さんと蒼甫さんは、とても仲が良い。
やり取りを見ていてもスムーズだ。
蒼甫さんは小町さんをからかって遊んでいるみたいで、小町さんもそれを楽しんでいる。
三年の時間を埋めるようにたくさんの話をした。
三人で、いっぱい笑った。
そっか、小町さんと蒼甫さんは叔父と甥の間柄だもんね。仲は良いはず。
あたしはふたりの掛け合いを見ながら、母が起きるまでの時間をゆったり過ごした。
(2009/10/14)