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 3. 「この恋は、ちょっと苦しい」

 みどりちゃんの家で夕食を食べた後、自分の部屋に戻り、ジョギングの格好に着替えた。
 手には懐中電灯とゴミ袋。
 一応、ゴミ収集日は決まっているけど、ゴミ置き場は二十四時間いつでも捨てられるようになっていて、マンションの部屋を出る度に少しずつ出たゴミを捨てるのが習慣になっている。
 ぼくは掃除、洗濯は苦手だけど、ゴミは小まめに出す方だ。
 散らかりはしないが、埃はふわふわと舞っている。そんな抜けたタイプ。
 今日も朝から二度目のゴミを持ってエレベーターにのる。
 入って奥の壁に張ってある掲示板をチェックした。
『落し物』『歩こう会』『ゴミの分別について』
 ふんふん、とタイトルを流し読み、自分に関係のあるものだけ目を通す。そうしてるうちに一階に着いた。
 マンションのエントランスにあるゴミ置き場と繋がるドアを開け、たくさんおいてある青いポリバケツのひとつに、コンビニの袋に入れた可燃ゴミを放り込んでそそくさと外に出る。
 ゴミ置き場の建物は、さすがに多くの世帯分のゴミを一時置きするために量といい臭いといいそれは大変なものだ。
 背中でドアが閉まる音を聞いてから一歩二歩と歩き、息を止め気味でいたぼくは、外の新鮮な空気をおもいっきり吸い込んだ。
 懐中電灯を照らすと、重いお腹を抱かえて走り始めた。
 ジャージがスカスカする。空気感を身にまとい足を運ぶ。
 背中には、四足歩行の動物のマークがデカデカとプリントされている。
 とくには着るものにはこだわらず、ジョギングできる恰好であればかまわない。
 けれど、気になるのは、ぶっかぶかなことだ。
 これが本当に格好いいのか……。
 その良さはわからないが、年の離れた妹がプレゼントしてくれたもので、いちおう大切に着てみてはいるのだけど。
 このメーカーのジャージのことを『プージャー』なんて呼んでいるらしい。着崩すのがカッコいいの。ぶか目がいいんだよね、と夢見がちな目で妹が言っていた。
 わからないね。今どきは。
 たいして興味もなく空耳くらいに妹の話を聞いていると、ときどき訳のわからない言葉が入ってくる。
 最初のうちこそは聞き返していたけれど、妹のこんなこともわかんないの? という軽蔑に似た視線を受けるようになってから、わからないことを訊くのがとても億劫になった。
 言葉の壁に阻まれると、意思の疎通すら困難になって、今では妹からのアクションにのみ答えるくらい疎遠になり、六才の年の差は社会人になって、とくに隔たりを感じるようになったと思う。
 その点、みどりちゃんは妹とたいして年も違わないのに言葉が崩れていない。
 好感がもてる話し方をする。
 耳にいい感じに響くやや低めの声も、すんなりと入ってきて聞きやすい。
 みどりちゃんは、とにかく、いい。

 マンションから道に出ると右に方向をとる。すぐの交差点。右向こうに見えるスーパーの灯りとは反対の暗がりに向け、足を送り出した。
 そんなにスピードは出さない。いたってのんびりと。
 小学校を通り過ぎ、右手に郵便局を見て、駅の方へ。川べりをずっと行く。
 ぽつん、と。先にある街灯が白く灯っているところで、白いワイシャツの人が鼻歌まじりにゆったりと歩いてくるのが見えた。
 マンションから出て、初めて出くわす人に目が自然と行く。
 肩にはスーツの上着を引っかけている。やや左右に揺れ、明らかにアルコールが入っている様子だ。
 近づいていく。
 手元の懐中電灯が照らし出したのは、お腹あたりが突き出した中年の男だった。
「よう。青木ぃ〜。がんばってるなー」
 陽気でリズムのある声に視線を上げた。
 馴染みのある顔に、すれ違おうとする足を止める。
「ああ、部長、でしたか。……お疲れ様です」
 駅から歩いて帰る部長と鉢合わせた。
 みどりちゃんのお父さんで、会社の上司だ。
 止まったところには街灯がなく、はっきりとした表情はわからない。
 懐中電灯を直接当てるわけにはいかないけれど、眩しくはない程度には照らしてみる。
 敬礼の仕草にオドケタような笑みを浮かべた部長の顔が浮び上がり、ちょっと不気味に映った。
 お酒の匂いが少々するものの、立ち止まった足元はわりとしっかりしているようだ。
 スーツの上着は引っかけたまま、空いた手はお腹をさすっている。
 しっかり、ごはんも食べてきたらしい。
「今日もみどりちゃんに夕食をいただきました」
「あ、ああ、ああ。いつも、悪いね。いや〜、ほんと……お粗末様」
 お粗末様、といった視線がぐらぐらと揺れている。
 ふん、揺れすぎだっつーの。このタヌキ親父め。
 そうは思っていてもぜったいに口にも態度にも出さない。
「いえ、いつもお世話になりっぱなしで、どうもすみません」
 首を横に振り、頭を下げ、こっちの表情を悟られまいと足元を照らす。
「いや、いや。よく我慢してくれているよ。君はスゴイよ。うん、ホントに。これからも…………よろしく頼むよ」
 部長がもごもごと言葉を濁す。
 よく聞こえなかった部分を想像しながら頭を上げると、てっぺんハゲが、営業時のように大げさなくらい下がっていた。
「……はぁ」
 何をそんな真剣に頼むんだよ。
 不味いメシのこと? それとも、みどりちゃん?
 どうせなら、後者ならいいのに。
 頭をのろのろと上げた部長は、夜だからというわけではなく冴えない顔だった。後ろめたい感情がありあり見えて、正直気持ちが萎えそうになった。
 これからも、不味いが頼む。
 訊かなくてもわかる。そんな顔だ。
 このままジョギングを続ける気にもなれなくて、マンションに帰ってしまおうか、なんて思った。
 けれど、部長と肩を並べて帰る選択は、ぼくにはない。
 走りつづけるしかない。
「それじゃ、私はもうすこし走ってきますので。部長、また明日」
 心もち明るめに声を張り上げてみた。
 背中で、おやすみ、の声が聞こえ、振り返る。
 部長が、手を振っていた。
 暗くて、どんな顔をしているのか確かめようがないけれど、まったくの悪い人ではない、と思う。
 みどりちゃんのお父さんなんだから。
 部長にわかるだけの頭を下げ、走り出す。
 風を感じ、夜空を見上げる。
 月が、みどりちゃんの仄かに笑った顔に見えた。
 ああ、今夜も可愛かったな。
 あれで、美味かったらいいのに。
 夕食のメニューは、豚のしょうが焼きとひじきの煮物だった。
 今日も壊滅的な味だった。
 身体が重い。
 お腹の中にたんまり詰め込んで、走っているのだから。
 ああ、苦しい。
 苦しいのは身体だけではない。
 心の方も、だ。
 みどりちゃんのお父さんである部長には、メンタルな部分も、しっちゃかめっちゃかかき乱されている。
 さっきみたいに、ぼくを後押しするような態度を見せたり、そうかと思うと、『女を泣かせるようなヤツになんか大事なみどりはやれんからな』とも言われる。
 持ち上げられたり、突き落とされたりと堪ったもんじゃない。
 女を泣かせているなんて、言われても困るんだけど。ほんとうに。
 まったくの勘違いなんだから。
 今日、たまたま居合わせた同期の子が、仕事で人間関係がうまくいかない、と泣き言を漏らした。
 ほんの短い休憩時間に聞いただけだ。
 同じ新入社員。アドバイスできる余裕もなく、ただただ、がんばれ、と励ました。その途端に泣き出した。
 たまりにたまって限界だったんだろう。彼女は秘書課という女性の多い職場でかなり揉まれている様子。誰にも打ち明けられずに悩んでいたそうだ。
 背中を撫ぜてやっているうちに、泣き止むどころか、涙が止まらなくなってしまった。
 彼女とは、新人研修で同じ班になっただけで、今は仕事でもプライベートでもまったくといっていいほど接点がなかった。
 仕事にも戻れず困っているところへ部長がやってきて、見るなり痴情のもつれ、と勝手に誤解したのだ。
 ああ。思い出したくもない。
 あの時の困惑ったらなかった。情けなかった。
 説明のしようもないし、泣いている本人はそれどころじゃない。
 泣きたいのは、ぼくの方だった。
 ああ。滅入る。
 最近はこんなことばっかりだ。
 どうしようもない時の方が多い。
 はっきり、きっぱり言えない時の方がぜったいに増えてきてる。
 大人の世界は、本音と建前で成り立っている。
 くそぉ、面白くない。
 いつもよりもスピードを上げてみる。
 ああ〜。苦しい。
 この恋は、いろいろな意味で苦しいのかもしれない。

(2010/08/07)

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